解読アルゴリズム、古い紙の署名

──平成0x29A年09月14日 16:30

合成音声アナウンスが響く。「第402ヘゲモニー期、内閣ユニット0x03Bによる政策変更リクエスト、承認シミュレーションを開始します」。
研修室の照明は蛍光灯が一本切れかけで、時々明滅する。目の前の半透明パネルには、淡いブルーのホログラム掲示でリクエスト詳細が浮かび上がっていた。「ブロックチェーン型地域通貨『みらいコイン』の還元率調整」とのこと。どうでもいいような、でも誰かの生活には直結するであろう議案だ。

「よし、しっかりやれよ、悠。こんな初歩で躓くようじゃ、祖父さんの顔に泥を塗るぞ」
脳内に響く祖父、浩平のエージェントの声。享年72、老衰。元は区役所の福祉課で、規則には厳しかったが、人情はあったと聞く。彼の人格データが私の脳に移植されてから、もう五年になる。

指示に従い、パネルに表示された仮の署名アルゴリズムを打ち込む。党ドクトリンに基づく暗号化署名だ。最新のバージョン0x29A-beta-07に準拠しているはず。エンターキーを押した瞬間、ピーッ、という耳障りな電子音が鳴り響いた。ホログラム掲示の文字が赤く点滅する。

「エラー。署名アルゴリズム不一致。ドクトリンバージョン0x29A-beta-07と互換性なし」

室内のあちこちで、同じエラー音が上がる。他の受講生たちも顔を見合わせ、ざわめき始めた。指導員は天を仰ぎ、大きくため息をつく。

「おや、これはまた古い手口だな」浩平が脳内でつぶやく。「アルゴリズムが半ば公然と解読されている弊害、というやつか」

指導員が立ち上がり、諦めたように言った。「はい、皆さん。いつもの不一致です。党ドクトリンのアルゴリズムが、また最新版と乖離しているようです。今回は暫定対応として、物理回線での署名認証を行います。各自、ガラケーを取り出して接続してください。そして、所定のコードをFAX機に送信してください」

私は思わず、ポケットから使い込まれたガラケーを取り出した。二つ折りタイプのそれは、昔、浩平が使っていたものだ。最新の多機能デバイスが席巻する中で、なぜかこの研修ではガラケーが必携品とされている。

「懐かしいな、この感触。昔はこれで文書をやり取りしてたんだぞ。便利だったんだ」浩平の声が少しだけ弾む。目の前のパネルに、ガラケーの赤外線ポートを繋ぐ指示が表示される。研修室の隅には、明らかに年季の入ったFAX機が鎮座していた。インクジェットプリンタ一体型の複合機などではなく、感熱紙を使うような、昔ながらの単機能機だ。

言われた通りにガラケーとFAX機を物理ケーブルで接続し、表示されたコードを送信した。ウィーン、ガタガタ、と鈍い音がして、FAX機が紙を吐き出す。

「物理署名承認。引き続き、最終確認プロトコルへ移行します」合成音声アナウンスが何事もなかったかのように続いた。

浩平は脳内で肩をすくめた。「結局、人間が手で動かさないと、何も進まないんだな。最新のアルゴリズムだの、暗号化だの言っても、最後は古い紙と物理回線か。お前も大変だ、悠」

私は苦笑いするしかなかった。最先端の内閣ユニット操作員になるための研修で、最新のドクトリンアルゴリズムの不一致を、平成初期のデバイスで乗り切る。このちぐはぐさこそが、この世界の真理なのかもしれない。
研修室の蛍光灯が、チカチカと不穏に瞬き続けていた。