スタンプ三個、閣議は一回

──平成0x29A年03月20日 10:20

「はい、そこ! 三角巾の結び方、それじゃすぐ解けますよー」

俺の声は、春先の気だるい空気に吸い込まれて消えた。グラウンドに集まった住民たちの顔には「早く終わらせてくれ」と書いてある。無理もない。今日の防災訓練に参加すれば、商店街のポイントカードにスタンプが三つもらえる。ほとんどの人間にとって、動機はそれだけだ。

『隼人、左の班、もう飽きてスマホ見てるぞ』

視界の隅に、半透明の健太さんが現れてぼやいた。交通事故で死んだ職場の先輩は、今や俺の専属エージェントだ。
「分かってますよ。でも、マニュアル通りに進めないと監査で……」

『そのマニュアル、配布されたCD-Rだろ? 分散ストレージの最新版とハッシュ値が違うって、先週から通知が来てるやつ』

「……見て見ぬふりです」

そのとき、視界中央に紫色のポップアップが割り込んできた。

【通達:あなたは第0x8C3A9内閣ユニットの臨時閣僚に任命されました。任期:5分間】

またか。舌打ちしそうになるのをこらえ、俺はメガホンを脇に置いた。
目の前では、おばあさんたちが三角巾で互いの頭をふざけて縛り合っている。

【閣議案件:災害時における情報伝達プロトコル改訂の是非】
【Request-ID: Δ-9B2F-C001】

議案の差分データが流れ込んでくる。要するに、災害時にトップダウンで全区画の情報を統制する厳格なプロトコルを導入するか、それとも現場の裁量を重視した既存の枠組みを維持するかの二択。

『うわ、懐かしい議論だな。俺が生きてた頃から揉めてたぞ、これ』

「健太さんなら、どっちです?」

『現場に決まってるだろ。上からの指示待ってたら、助かるもんも助からん』

正論だ。だが、ドクトリンのアルゴリズムは、常に厳格な統制を好む傾向にある。非承認を選ぶのが「党」の意向に沿った判断だろう。

ARグラスの向こうで、子供が炊き出し用の鍋をひっくり返して駆け回っている。誰も注意しない。これも、訓練という名の非公式ルールで回る、お約束の風景だ。

『で、どうするんだ? ブロックチェーンに刻まれるぞ、お前の投票』

「……現場、ですよね」

俺は既存の枠組み維持、つまり「現場裁量を重視する」の選択肢にフォーカスを合わせた。指先で、空中に承認のサインを描く。

【署名を受理。ドクトリン署名アルゴリズムとの整合性を確認……承認されました】
【第0x8C3A9内閣ユニットの任期は終了しました】

ふう、と息をつく。わずか数分の、されど国家の意思決定。まあ、数十万あるユニットの一つに過ぎないが。

「よし、じゃあ次は最後の訓練! 避難用テントの設営です! 班ごとに協力してくださーい!」

俺が声を張り上げた途端だった。

参加者たちは、ポイントカードのスタンプ台に殺到した。彼らにとっての「最後の訓練」とは、スタンプをもらって帰ることだったらしい。非公式ルールの極みだ。

誰にも支えられなかったテントのポールが派手な音を立てて倒れ、防水シートが虚しく風にはためいた。

阿鼻叫喚、というほどでもない。ただ、ぐっちゃぐちゃだ。

俺は崩壊したテントを見つめながら、さっき自分が下した「現場判断」の重みを思った。

『ま、これも現場判断ってやつだろ』

健太さんが、笑いをこらえきれないといった声で言った。