停まったままの交差点

──平成0x29A年07月31日 14:00

午後二時。一番気怠い時間だ。
管制室の窓からは、第7居住ブロックの画一的なビル群が、陽炎の向こうに揺れて見える。
俺の仕事は、この部屋から数十台の自動運転バスを遠隔監視すること。基本的には、流れていくログを眺めているだけだ。

『眠くなる道だな、翔』

網膜に直接、祖父の声が響く。エージェントになったじいちゃんは、生前と同じ、少し嗄れたトラック野郎の声だった。
「まあね。何もないのが一番だから」
そう返した瞬間、けたたましいアラートが鳴った。

モニターに赤枠のウィンドウがポップアップする。
【警告:703号車、信号待機超過。栄町三丁目交差点】

「またかよ」
舌打ちしながら、俺はコンソールを操作する。車両のシステムは正常。原因はインフラ側だ。
ログを遡ると、案の定、見慣れたエラーコードが点滅していた。

【信号制御権限デッドロック:内閣ユニット第0x28A4Cと第0x3F1B9の署名不整合】

『役所の縄張り争いってやつか。昔から変わらねえな』

バスの車内カメラに切り替える。乗客は十数人。買い物帰りらしい主婦や、退屈そうに窓の外を眺める学生。一人の老人が、苛立ったようにスマートドアを睨みつけている。
マニュアル通り、俺はまずバーチャル役所の交通管制課に接続した。
ポリゴンで描かれた担当アバターが、型通りの挨拶を返す。

「本件は、近隣商業施設が配布した折込チラシのAR広告更新リクエストに起因するものです。商業振興課の管轄となります」

たらい回しだ。商業振興課に繋ぐと、今度は「広告規定の更新承認は、各内閣ユニットのドクトリン署名が必要です」と返ってきた。
要するに、誰も責任を取りたくない。
そのチラシ一枚のせいで、バスは交差点の真ん中で立ち往生している。

『どうにもならねえな。乗ってる奴らが気の毒だ』
「ああ……」

苛立ちを紛らわすように、俺は机の引き出しを開けた。中から、色褪せた一枚の紙片を取り出す。十年以上前の、リニアのチケットの半券。じいちゃんと二人で、隣のブロックまで行った時のものだ。
インクが滲んだ日付と座席番号。それだけが、あの旅の証明だった。

その時、個人端末が短く振動した。
画面に浮かんだのは、見慣れない、しかし誰もが知っている紋章。

【通知:第0x4A9D2内閣ユニット】
【柏田 翔殿を内閣総理大臣に任命します。任期は300秒です】

『……おい、翔』
じいちゃんの声に、わずかな興奮が混じる。
『チャンスじゃねえか』

一瞬、ためらった。マニュアル違反だ。懲戒免職どころじゃ済まないかもしれない。
だが、モニターの向こうで、乗客の子供がぐずり始めているのが見えた。
俺は覚悟を決めた。

総理大臣用のコンソールを呼び出す。普段はグレーアウトしている、国家運営の最深部。
デッドロックを起こしている信号制御権限の差分断片を検索し、強制的に交通システム側へ移管するリクエストを組み上げた。
最後に、党ドクトリンに基づく暗号署名を求められる。
公然の秘密となっているバックドアを使い、俺は自分のデジタル証印をねじ込んだ。

――承認。

モニターの中で、703号車の前の信号が、すっと青に変わった。
バスは滑らかに発進する。車内の乗客たちから、ほっとしたような空気が伝わってきた。

三百秒後。俺はただの遠隔監視員に戻っていた。
世界は何も変わらない。バスは次のバス停に向かって走り、管制室には空調の音だけが響いている。
俺は自分のしたことの重大さに、今更ながら身がすくむ思いだった。

手の中の、チケットの半券をもう一度見つめる。
ここには、複雑な承認も、ユニット間の争いもない。ただ、そこへ行けるというだけの、単純で揺るぎない約束が記されているだけだ。

「なあ、じいちゃん」
俺は、誰にともなく呟いた。
「俺たち、いつからこんな遠回りするようになったんだろうな」

じいちゃんは、何も答えなかった。
ただ、モニターの向こうで夕陽に向かって伸びていく道を、静かに見つめているようだった。