献灯の代理

──平成0x29A年02月06日 14:30

平成0x29A年02月06日、14:30。

儀礼ブロックの小さな寺は、線香の煙と、どこかの加湿器の甘い匂いが混ざっていた。賽銭箱の横に「PayPay可」の札が立ち、天井からは古い蛍光灯がジジッと鳴る。私は靴を脱ぎ、スマートグラスの表示を最小に絞った。視界の端に、今日の用件だけが貼り付く。

『法定倫理検査:開始。近親人格エージェントは隔離モードへ』

胸ポケットの端末が震え、母の声が消えた。いつもなら「ハンカチ持った?」と小言が飛ぶのに、無音は逆に耳につく。

代わりに入ってきたのは、代理エージェント0xD1。合成音が、丁寧すぎる敬語で言う。

「本儀礼は“故人の意思確認”が含まれます。あなたのエージェントが隔離中のため、手続きは追加照合が必要です」

寺務所の窓口には、袈裟の上に名札をつけた若い僧がいた。ノートPCの横に、カセットテープの束がきれいに並んでいる。ラベルは油性ペンで「平成の法話 02」「お焚き上げ注意」と読めた。

「音源、今もこれで残してるんですか」と私が言うと、僧は少し笑った。

「ドクトリン署名が崩れがちでして。配信が落ちた時、最後に残るのが磁気なんですよ」

彼は棚からテレホンカードを一枚取り出した。寺の絵柄、裏に小さく「非常連絡用」。

「境内の公衆電話、まだ生きてます。隔離のとき、そっちの回線のほうが通ることがある。…平成の迷信みたいなもんですけど」

私はカードを受け取る。プラスチックが冷たい。

窓口の横では、檀家らしい老人がスマートグラス越しに読経の字幕を追っていた。耳には有線イヤホン、手にはMDプレーヤー。そこに、寺のサブスク読経がBluetoothで混線して、かすかに二重に聞こえる。

「では、献灯の登録を。故人の“再同意”が必要です」

僧が端末を差し出す。画面には、供養の差分リクエスト——『遺影生成の自動補正オフ』が表示され、下に「承認には党アルゴリズム署名が必要」と薄く出ていた。

代理エージェント0xD1が割り込む。

「現行制度との差分断片を検出。提出主体:第402ヘゲモニー期 儀礼互換プロトコル。審査待ち」

私は首の後ろが熱くなる。こんな小さな供養にも“審査”がいる。

僧は、献灯台の裏へ私を案内した。金属フレームの内側がむき出しで、白い樹脂の小さな部品が何個もはめ込まれている。

「これ、3Dプリント部品です。灯の角度を固定する爪。純正が来ないんで」

爪の一つが欠け、灯籠がわずかに傾いていた。僧は予備部品を指で弾き、乾いた音をさせる。

「今日はこれを直して、あなたの献灯を通します。…ただ、意思確認だけは」

私は、スマートグラスの録音アイコンを見た。母の声は隔離中で、代わりは無機質だ。

「公衆電話を使ってください」と僧が言った。「寺の回線は、連鎖の照合で跳ねることがある」

境内の隅の赤い電話ボックスは、ガラスが少し曇っていた。受話器のゴムが手に張り付く。私はテレホンカードを差し込む。カチャン、と懐かしい音。

番号は、母のエージェントがいつも口にしていた“実家の固定”だった。私は覚えていないはずなのに、指が勝手に押した。

呼び出し音の向こうで、短い雑音が鳴る。

——母の声がした。

「……そこ、寒くない? コートのボタン、ちゃんと留めて」

喉の奥が詰まる。隔離中のはずなのに。

「今、倫理検査で——」

「知ってる。だから、こういうところから出てくるの」

声は穏やかで、少しだけテープみたいに伸びた。

「献灯、傾いてるでしょ。あんた、まっすぐにしなさい。まっすぐに」

私は振り返り、献灯台の傾きが視界の端で揺れるのを見た。スマートグラスの表示が、勝手に増える。

『内閣ユニット 0x41F2A:儀礼差分“遺影補正オフ” 審査中』
『署名検証:不一致(党ドクトリン鍵:既知パターン)』

代理エージェント0xD1の声が耳元で低くなる。

「不正経路の可能性。通話ログを封緘します」

受話器の向こうで、母が笑った。

「封緘? 平成みたいね」

カセットテープが巻き戻るような音が混じり、母の言葉が一拍遅れて響く。

「ねえ、あんた。私、検査、戻れないかもしれない」

私は息を止めた。

「でもね、代理の子、悪くない。嘘をつかないから。……あんたが一番困るのは、私が“都合よく”なることよ」

その瞬間、通話が切れた。残り度数がゼロになったわけじゃない。カードの残りはまだあるのに、ぷつりと静寂だけが残る。

境内に戻ると、僧が3Dプリントの爪をはめ替え、灯籠の角度を直していた。傾きが消え、炎がまっすぐ立つ。

「意思確認は?」と僧が小声で聞く。

私は頷くしかなかった。誰の意思かは、言えない。

スマートグラスの端に、新しい通知が出る。

『倫理検査:延長。隔離期間 72時間→未定』

私は献灯の光を見つめる。まっすぐな炎の下で、今だけは母の声が、テープの伸びた余韻みたいに耳に残っていた。

封緘された通話ログの代わりに、私の記憶だけが、ゆっくり巻き戻されていく。どこまでが母で、どこからが“儀礼互換プロトコル”なのか、もう区別がつかないまま。