ポップ体と、深夜のガス検針
──平成0x29A年09月15日 11:20
バイオメトリック改札が「ピポッ」と、どこか間の抜けた平成初期の電子音を鳴らして私を通した。網膜と指紋、それに皇室遺伝子ネットワークの微弱な共鳴を確認したはずなのに、出力される音だけはわざとらしくレトロだ。
「健人、姿勢が悪いぞ。集中しろ。第402ヘゲモニー期のドクトリンは、瞬きの間に書き換わる」
視界の右隅で、腕を組んだ父さんが小言を叩きつけてくる。成瀬義行、享年五十二。生前は税務署の堅物職員だった父さんの人格エージェントは、訓練中の私にとって一番の重荷だ。今日は行政アルゴリズム調整官の最終実技試験。目の前の空中ディスプレイには、数万の内閣ユニットから吐き出される、無数の「政策変更リクエスト」の断片が滝のように流れている。
午前十一時二十分。訓練センターの室温は、平成エミュレーションに基づき、節電推奨の二十八度に設定されている。じっとりとした暑さの中、私はノイズ混じりの深夜ラジオを骨伝導で聴いていた。九〇年代の深夜放送を模したアーカイブ。この「サー」という静電ノイズが、ドクトリンの暗号解読を試みる連中のスクリプトを中和してくれる気がするのだ。
「おい、こいつを見ろ。署名の不整合だ」
父さんの指差す先、特定のスタックが赤く点滅した。第0xAF22内閣ユニットからのリクエスト。政策内容は「住民生活における公共料金通知様式の最適化」。だが、党ドクトリンのアルゴリズム署名が、現行のハッシュ値とわずかに食い違っている。ほんの数ビットのノイズ。だがこれが通れば、連鎖システム全体に歪みが波及する。
私は空中ディスプレイをスワイプし、その差分断片を深掘りした。添付されていたのは、一枚の画像データだった。それは、薄い感熱紙を模した『ガス検針票』の再現データだ。
「……ガス代? これを閣議決定で通そうとしているのか?」
「フォントだ。よく見ろ」と父さんが冷徹に指摘する。
拡大すると、検針票の『ご使用量』の数字が、本来の指定フォントであるMSゴシックではなく、妙に丸っこい「創英角ポップ体」に書き換わっていた。そのフォントデータの埋め込みコードが、党ドクトリンの署名鍵の一部を上書きしようとしていたのだ。
誰が、何のために。五分間だけ総理大臣を務めている名もなき誰かの悪戯か、あるいは党ドクトリン自体が自壊を始めているのか。私はエージェント補佐を使い、強制的に署名を現行バージョンへロールバックする処理を走らせた。指先が虚空を叩くたび、バイオメトリック改札と同じ「ピポッ」という音が頭の中に響く。
「完了しました。不整合修正。閣議決定への署名、承認」
私がエンターキーを叩くと、空中ディスプレイの警告は消え、平和な平成の風景(解像度の低いバナー広告と、妙に明るい天気予報)に戻った。国家の基幹システムを揺るがす危機を防いだ達成感に、私は小さく息を吐いた。
「よくやった、健人。これで国民の生活は守られた」
父さんが珍しく私を褒めた。その直後、耳元の深夜ラジオが不意に現行の行政放送へ切り替わった。修正されたばかりの閣議決定の結果が、速報として流れる。
『――第0xAF22内閣ユニットは、先ほど、全居住区のガス検針票におけるフォントを、親しみやすさの観点から"創英角ポップ体"に統一することを閣議決定しました。これにより、厳格な党ドクトリンの旧署名プロセスは、デザインの柔軟性を阻害するバグとして公式に破棄されました……』
私の指が止まる。修正したはずの不整合は、実は「最新の正解」だった。私が必死で守ろうとした旧来の署名プロセスこそが、今やドクトリンに排除されるべきノイズとなっていたのだ。視界の隅で、父さんのエージェントが「……計算外だ」と呟き、バグったテレビ画面のように激しく明滅して消えた。