クリックホイールの感触
──平成0x29A年10月25日 07:20
訓練室の空気は、古い機械が放つ熱とオゾンでよどんでいた。
僕の前に鎮座しているのは、鈍色の分厚い筐体を持つCRTモニター。電源を入れると、胸の奥に響くような低い唸りをあげて、緑色の文字が闇に浮かび上がった。
『ケース048:人格エージェント倫理逸脱判定シミュレーションを開始します』
無機質な合成音声アナウンスが、天井のスピーカーから降ってくる。視界の左端では、赤いアイコンが点滅していた。『エージェント:KIRISHIMA_REIKO 接続不可(倫理審査停止中)』。母さんが、そこにいない証だ。
周りの候補生たちは、イヤホン型のインターフェース越しに、自分のエージェントと小声で対話しながら課題を進めている。僕だけが、独りだった。
ポケットから、ずしりと重い金属の塊を取り出す。iPodだ。骨董品みたいなものだけど、母さんの数少ない形見だった。親指でクリックホイールをなぞる。カチ、カチ、カチ。指先に伝わる確かな感触が、思考のノイズを少しだけ遠ざけてくれる。
再生したのは、いつもの曲。画面には、滝のように流れるログが表示される。シミュレーション対象のエージェントが、過去一年間に行った膨大な判断の記録だ。
『候補生番号077、心拍数の上昇を検知。ユビキタスセンサーはあなたの動揺を記録しています。冷静に対応してください』
またアナウンスが響く。大きなお世話だ。
僕はログの奔流に目を凝らす。教官が言うには、党ドクトリンに定められた逸脱パターンを見つけ出し、報告するのがこの訓練の「正解」らしい。効率、最適化、安定。それ以外の変数は、切り捨てるべきノイズだと。
ほとんどのログは、ドクトリンの推奨値に沿った、教科書通りのものだった。だが、いくつか奇妙なログが混じっている。例えば、ある政策リクエストへの承認判断。アルゴリズムが99.8%の確率で「非承認」を推奨しているのに、対象エージェントは0.2%の「承認」を選んでいる。理由は「生前の人格が、類似の案件で地域文化の保護を優先したため」と記録されていた。
非効率な、人間臭い判断。ドクトリンから見れば、明白な逸脱だ。
周りの連中なら、即座に「逸脱」と判定するだろう。それが最短で評価点を得る方法だ。でも、僕の指は止まったままだった。
母さんも、そうだった。民俗学者だった母さんは、いつも非効率なもの、忘れ去られたものに価値を見出していた。「数字にできない手触りが大事なのよ」と、よく言っていた。
その母さんのエージェントが、なぜ倫理審査で止められたのか。理由は開示されない。でも、きっとこういう「人間臭さ」が、システムの定規からはみ出してしまったんだろう。
『シミュレーション、残り60秒です』
決断の時が来た。僕は判定入力用のコンソールに手を伸ばす。逸脱。それが正解。そうすれば、僕は検査官への道を一歩進める。
でも。
僕は入力欄に、違う言葉を打ち込んだ。
『判定:保留。ドクトリンとの差分は認めるが、逸脱とは断定できず。追加の対話調査を推奨』
時間切れのブザーが鳴り響く。僕の回答は、たぶん不正解だ。教官がこちらを一瞥したが、何も言わずに次の指示を出した。
訓練室を出て、冷たい廊下を歩く。ポケットの中のiPodを、もう一度握りしめた。
カチ、カチ、カチ。
クリックホイールを回す。そこには、ガラスの画面の向こうにはない、確かな手触りがあった。母さんが停止させられた本当の理由なんて、まだ分からない。でも、僕が今守るべきなのは、ドクトリンの正解なんかじゃない。きっと、この指先に残る、不器用な感触の方だ。