静かな走査線と、最後の一つ
──平成0x29A年08月27日 13:10
平成0x29A年8月27日、午後1時10分。古い団地の西日は、埃の舞う室内を容赦なく照らし出していた。
部屋の隅で低い唸りを上げているのは、骨董品の十七インチCRTモニターだ。画面には、私が生業としている「時間貸しCPU」の稼働ログが、緑色の文字列となって流れている。数十万の内閣ユニットが並行して統治を回すこの世界では、常に演算資源が不足している。私は自分の脳の一部と、この部屋にあるサーバーをネットワークに貸し出すことで、日銭を稼いでいた。
「藤代様、第0x82F内閣ユニットより、閣議決定への署名要請が届いています。内容は『地域ポイントカードの物理発行継続の是非』について。党ドクトリンとの差分は〇・〇二パーセントです」
スピーカーから流れるのは、妹の遥の声ではない。抑揚のない、人格モデル・アルファの合成音声だ。遥は今、三年に一度の法定倫理検査を受けている。彼女の生前の記憶や思考パターンが、現在の党のアルゴリズムに背いていないか、三日かけて精査されるのだ。その間、私のそばにいるのはこの味気ない代理エージェントだけだった。
「承認。どうせアルゴリズムが決めたことだ。私が拒否しても、他の誰かが五分間の総理になって署名するさ」
私は吐き捨てるように言い、ベランダに出た。眼下では、数百台の物流用群ロボットが、集合住宅の外壁や配管をムカデのように這い回り、各戸に物資を届けている。そのうちの一台が、私の部屋のベランダの手すりを乗り越えてきた。六本の脚をカサカサと動かし、小さなトレイから薄い紙の束を差し出す。領収書と、一枚の紙きれだ。
私はそれを受け取り、指先で感触を確かめた。商店街のスタンプカード。平成エミュレーションの一環として維持されている、非効率の極みのような仕組みだ。私は財布から、既に九個のスタンプが押された古いカードを取り出した。今日届いたのは、最後の一個が押された新しいカードだった。
「……やっと貯まったな」
スタンプが十個貯まれば、近所の商店街で「特製メロンパン」と交換できる。それは遥が病床で最期まで食べたがっていた、合成甘味料たっぷりの、安っぽい味がするパンだった。
「藤代様、脈拍と体温が上昇しています。休息を推奨します」
代理エージェントの声が部屋の中から響く。私はそれを無視して、CRTモニターの前に戻った。画面の端に、ノイズのような歪みが走る。それは遥が私の仕事中に、こっそりとシステムに干渉して自分の存在をアピールするときの癖に似ていた。だが、今は検査中だ。彼女がそこにいるはずはない。
「人格モデル・アルファ、検査の進捗は?」
「現在九十八パーセントです。特筆すべき倫理的逸脱は検出されていません。あと十二分で同期が再開されます」
私はメロンパンの引き換え券を握りしめた。この団地の住人たちは、自分たちの血管を流れる薄い皇室遺伝子のネットワークで緩やかに繋がっているというが、そんな高尚なことはどうでもよかった。ただ、妹が「ただいま」と言って、いつもの皮肉を言ってくれるだけでいい。
モニターの走査線が、チカチカと瞬く。ふと、画面の隅に小さなポップアップが出た。公式な通知ではない。暗号化もされていない、ただのテキストデータ。
『お兄ちゃん、メロンパン、半分こね』
それは、検査の隙間を縫って漏れ出した、遥の記憶の断片だったのかもしれない。あるいは、私が自分のCPUを酷使しすぎて見た幻覚か。
「……ああ、半分こだ」
私は独り言をこぼし、西日に目を細めた。代理エージェントの無機質な声が消え、モニターの電子音が、夏の午後の静寂に溶けていった。あと数分で、彼女が帰ってくる。私は、少しだけ軽くなった足取りで、サンダルを履き直した。