銀色のスペーサー、夕凪の周波数
──平成0x29A年04月20日 17:50
夕食前のホールには、配膳ロボットの駆動音と、入居者たちの穏やかな話し声が混ざり合って独特の低周波を作っている。壁掛けの液晶時計は「平成0x29A年 4月20日 17:50」を表示していた。あと十分で夕食が始まる。
「嫌だと言ったら嫌です。今日は気分が乗りません」
個室のベッドの端に腰掛けたタネさんが、子供のように顔を背けた。その痩せた腕には、皮膚と同化しかけた古いセンサー跡がある。僕は手元のトレイに乗った、切手サイズの銀色のシート――循環器系を調整するナノ医療パッチ――を見つめてため息をついた。
『サトシ、無理強いすんなよ。婆さん、目がマジだぜ』
脳内で、ガムを噛むような気怠げな声が響く。僕の視界の端に、半透明のウィンドウで従兄のテツ兄ちゃんの顔が表示された。十年前にバイク事故で死んだ、元ゲーセン店員のエージェントだ。倫理検査をパスしたばかりだからか、今日のテツ兄ちゃんは解像度が妙に高く、金髪の生え際までくっきり見えている。
「タネさん、これ貼らないと、夜中にまた胸が苦しくなりますよ。先生からも強く言われてますから」
「いいえ。この子が直るまでは、何も身体に入れません」
タネさんが頑なに守っているのは、サイドテーブルに鎮座するプラスチックの箱だった。角が丸く、淡いピンク色をしたラジカセ。博物館級の骨董品だ。スロットには「北島三郎全集」と手書きされたカセットテープが入っている。
「動かないんですか?」
「ええ。スイッチを入れても、うんともすんとも。私の寿命より先に、この子が逝ってしまったのね」
タネさんの声が湿り気を帯びる。この施設「シルバー・ハイツ平成」では、入居者の精神安定のために、彼らが若かりし頃――あるいはその親の世代の――物品を「実用品」として使うことが推奨されている。だが、党のドクトリンは「平成様式の維持」は命じても、その修理部品の供給までは保証してくれない。
僕はラジカセを手に取った。振るとカタカタと乾いた音がする。裏蓋を開けてみる。単一電池が四本。液漏れはしていないが、マイナス極を受け止めるバネが錆びて、根元から折れかけていた。これでは通電しない。
『うわ、こりゃひでえ。バネが死んでるな。接点が浮いちまってる』
テツ兄ちゃんが、僕の視神経を通して覗き込み、専門家ぶった声を出す。
「……新しい電池にしても駄目ですね。金具が劣化して、隙間が空いちゃってます」
「じゃあ、もう歌は聴けないの?」
タネさんの瞳が揺れた。この時間の彼女にとって、演歌は精神安定剤よりも重要なインフラだ。
修理班を呼べば三日はかかる。その間、タネさんはパッチを拒否し続けるだろうか。それはまずい。
『おいサトシ、ポケットにあれ入ってるだろ。昼休みに「G-PARA」で使い忘れたやつ』
「え?」
『いいから出してみろよ。厚みといい導電性といい、ちょうどいいスペーサーになるはずだ』
僕は制服のポケットを探った。指先に冷たく硬い感触が触れる。昼休憩のとき、気分転換に寄ったレトロゲームセンターで余らせた、真鍮色のメダルが一枚。表面には星のマークと「AMUSEMENT ONLY」の刻印。
「そんなの挟んで大丈夫かな。電圧とか」
『単なる導体だろ。昔はよくやったんだよ、筐体の基盤がイカれた時にさ。……いや、基盤はやってねえか。まあいい、試してみろって』
僕は周囲を見回し、廊下に施設長がいないことを確認してから、こっそりと電池ボックスの隙間にメダルを差し込んだ。錆びたバネと電池のマイナス極の間に、メダルが吸い込まれるようにフィットする。きつめに押し込むと、グラついていた電池がピタリと固定された。
蓋を閉め、再生ボタンを押す。
ザッ、ザッ、というノイズのあと、少しこもった、しかし力強いイントロがスピーカーから流れ出した。演歌特有の唸りが、無機質な個室の空気を震わせる。
「あぁ……!」
タネさんの顔がぱっと明るくなり、しわくちゃの手が口元を覆った。
「直ったのね! 魔法みたい」
「あくまで応急処置ですけどね。……さあ、音楽を聴きながらでいいですから、これを」
僕はすかさずナノ医療パッチを差し出した。今度は拒絶されなかった。タネさんの腕にパッチを押し当てると、皮膚の水分と反応して瞬時に透明化し、ナノマシンが経皮吸収されていく。
その時、視界の右上に赤い通知がポップアップした。
『【宮内庁ユニット広報】春季皇霊祭の儀、滞りなく終了。遺伝子ネットワーク同期率、正常範囲を維持』
僕とテツ兄ちゃん以外の誰にも見えない、全市民向けの定型通知。タネさんの血管には最新のナノマシンが流れ込み、耳には半世紀以上前の磁気テープの音が届いている。そして遠くのどこかでは、形骸化した皇室の祈りがデータとして処理されている。
『へへ、いい仕事したな、サトシ。メダル一枚で平和が守れるなら安いもんだ』
テツ兄ちゃんが満足げに鼻を鳴らした。
ラジカセの中で、ゲームセンターのメダルが電流を繋いでいる。それは本来の用途ではないけれど、今のこの場所には、どんな高価な医療機器よりも必要な部品だった。
「ありがとうねぇ、本当に」
タネさんが目を細めてリズムを取り始める。僕は空になったパッチの台紙をポケットにしまい、小さく微笑んで部屋を出た。
廊下の窓から見える夕焼けは、今日も変わらず、ひどく綺麗で、どこか作り物めいていた。