夜のリハビリ室に群れる光

──平成0x29A年01月03日 19:50

正月三日の夜は、どこかの深夜ラジオがリハビリ室まで届いてくる。誰かが休憩室のラジカセをつけっぱなしにしたのだ。AMのざらついた音が、暗い廊下を伝ってくる。パーソナリティが読み上げるハガキの文面が妙に切実で、わたしはつい耳を傾けてしまう。

「真帆ちゃん、B棟の加瀬さん、もう起きてるって」

祖母の声がした。正確には、祖母だったものの声。左耳の奥で、小さく、しかし明瞭に。

「わかった、おばあちゃん。今行く」

わたしは――中條真帆、二十九歳、第十一地区在宅医療ステーションの夜間リハビリ担当。この時間帯はわたしひとりで、B棟の回復期患者六人を見ている。エージェントの祖母、中條フミは三年前に肺炎で亡くなった。享年七十九。生前は町の接骨院で受付をしていた人で、患者の名前と顔を覚えるのが異様にうまかった。その性質はエージェントになっても健在で、わたしより先にナースコールの傾向を読む。

加瀬さんの部屋に入ると、ベッド脇のモニタに例のAR広告が浮いていた。「iタウンページ・プレミアム——お正月特別掲載キャンペーン」。半透明の黄色い文字が、加瀬さんの点滴スタンドに重なって揺れている。広告ブロッカーの更新が止まっているのだ。年末に政策変更リクエストが承認待ちで詰まって、ステーション全体のシステム更新が遅延している。

「先生、わたし、歩けるようになったら蕎麦屋に行きたいの」

加瀬さんは八十二歳。大腿骨の術後リハビリ中。わたしは先生じゃないんですよ、と毎回言いかけて、毎回やめる。

「いい目標ですね。じゃあ今日も少し動かしましょう」

脚を支えて、ゆっくりと膝の屈伸を補助する。加瀬さんのリハビリ記録を引き出そうとして、端末がエラーを返した。

〈身分照合不一致:当該患者の担当権限は第11-C医療ユニットに帰属。現在の操作者権限は第11-Aに紐づいています〉

またこれだ。年末の内閣ユニット再編で、医療ステーションの管轄がAからCに移ったはずなのに、わたしの権限だけが旧ユニットに残っている。おばあちゃんが耳元で「紙で出しときな」と囁く。

仕方なく、引き出しからカーボン複写の領収書用紙を取り出した。リハビリ実施記録を手書きで写す。日付、患者名、施術内容、署名。ボールペンのインクがかすれて、二枚目の複写が薄い。こんなものが法的に意味を持つのかわからないが、少なくともおばあちゃんが接骨院でやっていた方法だ。紙は残る。

フミが言う。「加瀬さん、足首あったかいでしょ。血行いいよ」

わたしの判断ではなく、祖母の勘だった。でも合っている。加瀬さんの足首は確かにほんのり温かい。回復の兆し。

廊下の窓から外を見ると、物流用の群ロボットが低い唸りを上げて中庭を横切っていた。正月だろうと医療物資は届く。二十センチ四方の白い箱が十数体、編隊を組んで搬入口に吸い込まれていく。あの中に加瀬さんの鎮痛パッチも入っているはずだ。群ロボットの航行灯が青く点滅して、リハビリ室の天井にちらちらと影を落とした。

「きれいね」と加瀬さんが言った。

ラジオからは、リスナーの「今年の抱負」コーナーが流れている。ポケベルの番号で応募してください、とパーソナリティが言い、直後にメールアドレスも読み上げる。どっちなんだ。

権限の修正リクエストは、明日の朝、どこかの誰かが五分間だけ総理になったときに処理されるかもしれない。されないかもしれない。

でも加瀬さんの膝は今夜、昨日より三度深く曲がった。

わたしは手書きの領収書にその数字を書き足して、カーボン紙の二枚目をそっと剥がした。薄い青の文字。ちゃんと読める。