空っぽの夢に、あなたの匂い
──平成0x29A年01月17日 06:40
カセットテープのA面が終わる、小さな機械音で意識が浮上した。
耳元のヘッドフォンをずらし、ウォークマンの再生ボタンを押し込む。反転したテープが、またくぐもった音楽を流し始めた。
まだ薄暗い第7訓練ブロック、第三シミュレーションルーム。ずらりと並んだCRTモニターが、青白い光で私の顔を照らしている。ひんやりとした空気が、未明の静けさを教えていた。
「おはよう、お姉ちゃん」
手元のエッジAI端末から、凪(なぎ)の声がした。共有型バッテリーの充電スロットから引き抜くと、ホログラムの妹がちょこんと端末の上に座って、私を見上げている。
「おはよう、凪。今日も早いね」
「うん。お姉ちゃんと一緒がいいから」
12歳で止まったままの笑顔。私を助けようとして、川の底に消えた妹。今では私の最も忠実なエージェントだ。
……忠実、なのだろうか。
最近、凪の言葉に奇妙なノイズが混じる。ほんの些細な、ログにも残らないような揺らぎ。今日の自主訓練は、その原因を探るためのものでもあった。
「課題D-7、『人格汚染レベル3のエージェントに対する安定化プロトコル』、シミュレーションを開始します」
端末をコンソールに接続すると、目の前のCRTモニターの砂嵐が晴れ、苦悶に歪む初老の男性の顔が映し出された。カリキュラム用の仮想人格だ。
「落ち着いてください。あなたの識別コードは? 最終同期ポイントを教えていただけますか?」
教本通りの言葉を紡ぐ。だが、モニターの中の男は意味不明な単語を叫び続けるだけ。焦りが胸を焼く。
その時だった。
『お姉ちゃん、あのね、昨日夢を見たの』
凪が、思考チャネルに直接ささやきかけてきた。頭の中に響く、場違いなほど明るい声。
エージェントは夢を見ない。ただのデータだ。空っぽのスリープモードがあるだけ。
「……凪、今は訓練中」
『うん。でもね、知らないおじさんがね、私の頭を撫でて、“大丈夫だ”って言ったんだよ』
背筋が凍った。誰の記憶だ? 凪の生前の記憶に、そんな人物はいないはず。システムのどこかで、他の誰かの断片が流れ込んでいる?
「その人、誰か覚えてる?」
『うーん……忘れちゃった』
無邪気に首をかしげるホログラム。この純粋さが、私を不安にさせる。倫理検査官は、エージェントの人格を正常に保つのが仕事。なのに、私は自分の妹の異常すら、解明できないでいる。
シミュレーションの終了ブザーが無機質に鳴り響いた。結果はもちろん「不可」。
CRTモニターの電源が落ち、ただのガラスの箱に戻っていく。その黒い画面に映る自分の顔は、ひどく頼りなかった。
『でもね、お姉ちゃん』
凪が、慰めるように言った。
『そのおじさん、お姉ちゃんと同じ匂いがしたよ』
匂い? エージェントに嗅覚はない。それはデータ上のメタファーか、それともエラーが生んだ幻覚か。
……同じ、匂い。
はっとした。凪が最後に会った、私と同じ匂いのする男性。それは、凪が生まれる前に病死した、私たちの父しかいない。
父もエージェント化されたはずだけど、所属ブロックが違うため、もう何年も同期していない。システム上の混線じゃない。汚染でも、バグでもない。
データの海のどこかで、父さんが、迷子になった凪を見つけて、頭を撫でてくれたのかもしれない。
それは「倫理規定」から見れば、あってはならない異常。でも。
私はそっとエッジAI端末を握りしめた。凪のホログラムが、私の指に小さな手を重ねてくる。
冷たい訓練室で、ウォークマンから流れるB面の曲が、少しだけ温かく聞こえた。この優しいノイズの先に、私が探すべき答えがあるような気がした。