シールの隙間を走る声
──平成0x29A年02月03日 17:50
俺はシャトルの窓際に座って、肘掛けに貼られた変色したプリクラを眺めていた。誰かが剥がし忘れたのか、二人の女が肩を寄せて笑っている。背景はキラキラのハートマーク。平成エミュレートの副産物だろうが、こんな古いシールがまだ残っているのも妙な話だ。
「本日も安全運行を心がけます」
合成音声が流れる。自動運転シャトルは定刻通り旧葛飾エリアの駅前を発車した。俺の仕事は記憶補助システムの出張メンテナンス。今日は旧江戸川沿いの老人ホームで、入居者のエージェントが軒並み不調を起こしているという報告があった。
耳の奥で、母さんの声がした。
『洋二、今日はお昼ご飯ちゃんと食べた?』
「昼はカップ麺だよ」
俺は小声で答える。隣の席の男が一瞬こっちを見たが、すぐに視線を戻した。エージェントと話すのは珍しくない。
『またそんなもの……栄養バランスが偏るわよ』
母さんは五年前、心臓発作で亡くなった。享年53。今は俺の記憶補助エージェントとして、毎日こうして話しかけてくる。母さんの声は優しいが、時々妙にズレた質問をする。三日前は「今日は何曜日?」と聞いてきた。俺が「金曜だよ」と答えると、「そう、じゃあ明日は土曜ね」と返した。当たり前のことを確認するような口調だった。
シャトルが橋を渡る。窓の外に工場地帯が広がり、煙突から白い煙が立ち上っている。俺は鞄からタブレットを取り出し、今日の作業内容を確認した。
『ねえ洋二、駐輪場の紙札、ちゃんと貼っといてね』
「……は?」
俺は思わず声を上げた。駐輪場の紙札? 何の話だ。
『ほら、あの黄色い紙。自転車に貼るやつ。期限切れたら罰金取られるでしょ』
母さんの声は真剣だった。だが、俺は自転車なんて持っていない。それに駐輪場の紙札なんて、少なくとも十年以上前に廃止されたはずだ。今は全部デジタル管理だ。
俺はタブレットを操作して、母さんのエージェントのログを開いた。画面には「最終更新日:平成0x296年08月12日」と表示されている。三年半前だ。
「……マジかよ」
記憶補助エージェントは、定期的に更新しないと古い情報を繰り返すようになる。俺は自分のメンテナンスを怠っていた。仕事で他人のエージェントばかり直していて、自分のことは後回しにしていた。
『洋二? どうしたの?』
母さんの声が心配そうに響く。俺は深呼吸した。
「何でもない。大丈夫だよ」
シャトルが次の停留所に近づく。車内アナウンスが流れ、デジタルツインの広告が窓に映し出される。若い女性が笑顔で何かの飲料を持っている。その隣に、小さく「あなたの記憶、最新ですか?」という文字が浮かんでいる。
俺は苦笑した。
『洋二、笑ってるけど何かいいことあった?』
「うん、まあね」
俺はタブレットを閉じて、窓の外を見た。プリクラの女たちは今も笑っている。誰かの記憶の断片が、この席に貼りついたまま走り続けている。
母さんの声はもう少しの間、三年半前の記憶を繰り返すだろう。次の倫理検査までは、あと二週間ある。それまでは、駐輪場の紙札の話を聞き続けることになる。
シャトルは静かに走り続けた。