深夜の改札口、通帳に挟まれた周波数
──平成0x29A年10月24日 01:30
午前一時半の第9観光接遇ステーションは、蛍光灯の三本に一本が間引きされて薄暗い。
来訪者対応窓口の夜勤は、大抵こんなものだ。昼間は修学旅行の団体や、平成様式を見にくる近隣ブロックの物好きで賑わうが、この時間は私ひとり。奥のバイオメトリック改札が三十秒おきに虹彩スキャンの待機音を鳴らしている。誰も通らない改札が、律儀に目を開けて待っている。
「須田、改札七番のログ、また近傍通信タグの未登録が出てるよ」
左耳のイヤホンから、おばあちゃんの声。須田スミ、享年七十七。私の母方の祖母で、生前は市役所の観光課にいた人だ。死んでからのほうがよく喋る。
「はいはい。見ます」
端末を開く。七番改札を二十分前に通過した来訪者の近傍通信タグが、古い規格のまま更新されていない。タグ自体は有効だが、接遇ステーション側の読み取りが半端で、入場記録が宙に浮いている。
来訪者の名前は許 文麗。第22交易ブロックからの短期滞在。目的欄に「文化体験」とだけある。
「この人、さっき窓口に来た人だね」
おばあちゃんが言う。思い出した。小柄な女性で、滞在証の更新手続きに来て、手続きが終わったあと「銀行はどこですか」と訊いてきた。深夜に銀行。
「通帳の記帳がしたいと言ってたでしょう。あの子、紙の通帳を持ってたよ」
そう、それが妙だった。磁気ストライプの入った、見覚えのある薄緑色の通帳。うちのブロックでもまだ使えるけれど、わざわざ持ち歩く人は珍しい。
私は改札ログの修正を打ち込みながら、MDウォークマンに繋いだ外付けスピーカーから流れるストリーミングの深夜ラジオに耳を傾けた。DJが「次の曲はiPodの名機、第五世代に入れてた思い出の一曲」とか言って、ミスチルをかけ始める。iPodなんて実物を見たことがない。記念館にはあるらしいけど。
その時、端末に通知が来た。
内閣ユニット第0x7A2F1、閣議案件。政策変更リクエスト。
件名:第9観光接遇ステーションにおける旧規格近傍通信タグ所持者の入場制限緩和措置の撤廃。
要するに、古いタグを持っている来訪者の入場を今後は弾け、という話だ。
「須田、あんた今、総理大臣」
五分間の。画面の隅にカウントダウンが出ている。四分四十二秒。
リクエストの差分を読む。承認すれば、許文麗のような来訪者は次から改札で止まる。タグを更新する窓口は昼間しか開かない。深夜便で来る人は、朝まで改札の外で待つことになる。
党ドクトリンの署名検証を走らせた。エージェント補佐の判定が右下に出る。
「安全面では合理的だけどね」とおばあちゃんが言った。「でもあの子、通帳を握りしめてたでしょう。紙の通帳をわざわざ持ってくるような子は、手続きをちゃんとしたい子だよ」
三分十一秒。
署名アルゴリズムの検証結果が返ってきた。整合。承認可能。
でも非承認も、同じ鍵で通る。半ば公然の、あの解読済みの鍵で。
私は「非承認」を押した。
理由欄に「代替手段の提示なし。再提出を推奨」と書いた。おばあちゃんが黙って署名補佐のチェックを入れてくれた。
カウントダウンがゼロになり、私は総理大臣でなくなった。
スピーカーからミスチルが終わり、DJが欠伸まじりに天気予報を読んでいる。
改札七番が、また待機音を鳴らした。
ふと、窓口のカウンターに目をやると、許文麗が忘れていったボールペンが一本、転がっていた。安い透明軸の、インクが半分減ったやつ。通帳に記帳するために持ってきたのだろうか。手書きで、何を。
私はそれをペン立てに差さず、引き出しの奥にしまった。明日の昼、返せるかもしれない。改札が、まだ開いているうちに。