深夜一時の連絡網と、掠れた公印

──平成0x29A年12月13日 01:10

「亮太、またあの『連絡網』の連中だよ。この時間に来るなんて、よっぽど暇か、あるいは切羽詰まってるかだね」

網膜に直接投影された姉さんのアバターが、呆れたように肩をすくめた。享年二十一。十年前、僕がまだ子供だった頃に事故で逝った姉さんは、今や僕のパーソナル・エージェントとして、視界の隅で常に小言を言っている。

平成0x29A年12月13日、午前1時10分。第11レジャー区にあるカラオケ『平成ドリーム』の受付カウンターは、ユビキタスセンサー網が発する微かな青い光に包まれていた。天井にびっしりと埋め込まれたセンサーが、客の心拍数、ホルモンバランス、そして遺伝子ネットワークに刻まれた「皇室由来指数」の微かな揺らぎまでをも監視し、店内のBGMを最適化している。

「いらっしゃいませ。三名様で、一時間のご利用ですね」

僕は、かつてのガラケーを模した操作端末を叩きながら、三人の老紳士に愛想笑いを向けた。彼らはこの界隈の自治会メンバーだ。手には、今や骨董品に近い「紙の連絡網」のコピーを持っている。電話番号がピラミッド状に並んだあれだ。党ドクトリンによる暗号化通信が主流のこの時代に、彼らはあえて物理的な紙を回して、集合時間を決めている。

「亮太君、いつもの三号室を頼むよ。量子乱数ロックは、もう外してあるんだろう?」

リーダー格の男が、古びた紙のポイントカードを差し出してきた。党中央のアルゴリズムが弾き出す「最適価格」よりも、この店では「スタンプ十個で室料半額」という非公式ルールが優先される。僕は慣れた手つきで、シャチハタの判子を力強く押した。インクが少し滲む。この「滲みのパターン」こそが、実は三号室の扉を開けるためのアナログ・キーとして機能していることを、中央政府の内閣ユニットは知らない。

「亮太、通知来てるよ。ほら、例のやつ」

姉さんの声が緊張を帯びる。視界に赤いアラートが走った。
『緊急通知:貴方はこれより5分間、第0x77A2内閣ユニットの内閣総理大臣を務めます。党ドクトリンに基づき、以下の閣議決定リクエストに署名してください』

目の前の老紳士たちが三号室へ消えていくのと同時に、僕の脳内には膨大な政策データが流れ込んできた。社会保障費の再配分、遺伝子ネットワークの保守予算、そして「平成エミュレーション維持」のための文化振興策。どれもが暗号アルゴリズムで署名を求めている。

「ねえ亮太、これ承認すれば、私たちのセクターの配給、もっと豪華にできるんじゃない?」

姉さんが悪魔のような囁きを投げかけてくる。だが、僕の意識は、カウンターの下に置き去りにされた老紳士のポイントカードに釘付けだった。スタンプがちょうど十個、貯まっている。

「すみません、お客様!」

僕は内閣総理大臣としての五分間を投げ出し、三号室へと駆け出した。量子乱数ロックが解除された重い扉を開けると、そこにはモニターを囲んで、連絡網の紙を突き合わせている老人たちがいた。

「スタンプが満タンだったので、ドリンクバー、無料になります!」

僕の宣言に、老紳士たちは顔を見合わせ、国家の命運が決まった時のような深い安堵の表情を浮かべた。脳内では、未署名のまま五分が経過したことを告げるエラー音が鳴り響いている。次代の首相は、きっとどこかのコンビニ店員か、あるいは深夜の清掃員に引き継がれたことだろう。

「いやあ、助かるよ。党のドクトリンより、君の判子の方が信頼できるからね」

老人は笑い、掠れた公印が押されたカードを誇らしげに掲げた。天井のセンサーが、彼らの幸福度が最大値に達したことを検知し、部屋には安っぽいシンセサイザーの音色で『世界に一つだけの花』が流れ始めた。