コピー機の前で咳をする死者
──平成0x29A年 日時不明
研修三日目の朝、私はコンビニのコピー機の前で途方に暮れていた。
「拡大率、九十一パーセント」
右耳のイヤホンから、叔父の声が告げる。叔父――高瀬義明。三年前に膵臓癌で逝った、元・自動車教習所の教官。人格移植後もその癖は抜けず、何かにつけ数値で指示を出してくる。
「九十一じゃ収まらないよ、叔父さん。原本がB4なの」
私がコンビニに来ているのは、研修テキストの増刷のためだ。市立の暗号行政実務講座。受講生二十四名に配る閣議承認フロー演習の資料が、講師の手違いで十二部しか刷られていなかった。講師といっても私のことだが。
コピー機の液晶には、年季の入ったiモード風のメニューが並んでいる。「コピー」「FAX」「行政証明」「写真プリント」。その横に、いつの間にか「記憶補助アプリ連携」のボタンが追加されていた。受講生の一人が先週、閣議演習で自分が承認した政策変更リクエストの内容を翌日には忘れていて、苦情が出たらしい。それで研修施設がコンビニ側に頼んだのだ。コピー機経由で記憶補助アプリにログを流し込めるようにしてくれ、と。
紙を差し込む。ガコン、と古い音がして、温かいトナーの匂いが立ち上る。
「義明さんの言う通り九十一にしときなさいよ。余白に書き込みさせるんでしょ」
叔父が咳払いした。移植人格には咳の必要などないのに、生前の癖がそのまま残っている。教習所で生徒が脱輪するたびに、こういう咳をしていたと母から聞いた。
コピーの間に、スマートフォンを開く。画面の上部に通知が一件。
《内閣ユニット第0x7A2F1・総理大臣任命通知》
《高瀬詩織殿 本日10:42:00より5分間、内閣総理大臣に任命されます》
十時四十二分。研修の真っ最中だ。
「また来たね」と叔父が言う。三度目だった。
「演習中に閣議やるの、受講生に示しがつかないんだけど」
「逆だろ。実演になる」
一理あるようで、ない。先月の任命時、私は政策変更リクエストに党ドクトリンの暗号署名を付けようとして失敗した。署名アルゴリズムのバージョンが、私のエージェント側と閣議サーバ側で食い違っていたのだ。叔父の人格データに紐づく暗号鍵が、先月の倫理検査で更新された際にハッシュの世代がずれたらしい。
結果、五分間まるごと空転。承認も非承認もできず、リクエストは次のユニットに回された。
「今回もずれてたら同じことになるよ」
「検査後に鍵の再照合、やったか?」
「……やった、と思う」
「思う、は教習なら不合格だ」
コピー機が最後の一枚を吐き出した。温かい紙の束を抱えて外に出ると、駐輪場の自転車に挟まれた紙札が風でめくれていた。「無断駐輪は撤去します 管理番号0x──」。番号の末尾がインクの滲みで読めない。誰の自転車かも、誰が撤去するのかも、曖昧なまま放置されている。この世界の縮図みたいだと思って、少し笑った。
研修室に戻ると、受講生の一人がリモート診療端末で耳鼻科の予約を取っていた。端末の画面に「問診票を記憶補助アプリから自動入力しますか?」と表示されている。便利なのか不気味なのか判断がつかない。
十時四十二分。
通知が震えた。私はホワイトボードの前に立ったまま、五分間の総理大臣になった。
閣議リクエストが三件。叔父が読み上げる。署名を試みる。
鍵の照合――不一致。
「叔父さん」
「ああ、ずれてる。〇・七世代分」
受講生たちがこちらを見ていた。私は苦笑して、ホワイトボードにマーカーで書いた。
『本日の演習課題:閣議署名の暗号バージョン不一致が生じた場合の対処法』
叔父が、また咳をした。
五分が過ぎた。リクエストは三件とも、次のユニットへ。
受講生の誰かが小さく拍手した。それが労いなのか皮肉なのか、私にはわからなかった。