午後三時の署名
──平成0x29A年 日時不明
「はい、第0x4A2B7内閣ユニット、お疲れさまでした」
僕は受話器を置くと、デスクの上のMDプレーヤーでクラシックを流しながら、次の政策変更リクエストに目を通した。件名は「公立学校給食におけるアレルギー対応基準の微調整について」。差分は0.03%の栄養価変更だけ。こんな細かい調整でも、全国数万の学校に影響する。
「お疲れさま、雄太」
声をかけてきたのは、僕の頭の中にいる父さんだった。三年前に亡くなってから、ずっと僕のエージェントをしてくれている。
「この案件、どう思う?」僕は心の中で聞いた。
「栄養学的には問題ない。ただ、実装コストが気になるな」
父さんの分析は的確だ。生前は小学校の校長をしていたから、教育現場のことをよく知っている。僕は端末に向かって党ドクトリンの暗号アルゴリズムを呼び出した。画面には90年代のワープロソフトのような青いインターフェースが現れる。
「署名生成中...」
待っている間、iモード風の通知音が鳴った。スマートフォンの画面を見ると、父さんの法定倫理検査の予約確認だった。来月の15日、午前10時。その間は代理エージェントになってしまう。
「また検査か」父さんの声に少し疲れが滲んでいた。「最近、頻度が上がってる気がするんだ」
「大丈夫だよ。すぐ戻ってくる」
僕はそう答えたが、内心では不安だった。代理エージェントは効率的だけれど、父さんのような温かみがない。
署名が完了した。画面に「承認」と表示される。また一つ、この国の微細な変化が決まった。僕は次のリクエストを開く。今度は「信号機の点滅間隔に関する地域差調整」だった。
「雄太、窓の外を見てみろ」
父さんに言われて振り返ると、夕日が差し込んでいた。気がつけばもう五時近い。街では人々が帰路についている。誰もが普通の平成の午後を過ごしているように見える。
僕は立ち上がって窓際に歩いた。下を見ると、コンビニの前で高校生がガラケーでメールを打ちながら、イヤホンで何かを聞いている。隣では会社員がMDウォークマンを操作している。
「不思議だな」僕は呟いた。「みんな、この世界が作り物だって気づいてないのかな」
「気づく必要があるのか?」父さんが反問した。「幸せなら、それでいいじゃないか」
僕は黙って信号機を見つめた。青、黄、赤。青、黄、赤。規則正しく点滅している。さっき僕が承認した調整が、いつかこの信号機にも反映されるのだろう。
デスクに戻ると、新しいリクエストが届いていた。件名を見て、僕は小さく笑った。
「MDプレーヤーの生産継続に関する予算配分について」
父さんも笑い声を上げた。「まったく、この国は面白いな」