カーボンの帳尻、スーファミの余熱

──平成0x29A年02月07日 12:10

 昼休みのチャイムが鳴って、研修室のパイプ椅子がいっせいに軋んだ。

 俺は弁当箱を開ける気にもなれず、手元のカーボンクレジット台帳をめくっていた。紙だ。正真正銘の紙。第8農業教育ブロックの新任研修では、高層農業プラントの運用手順をすべてこの台帳で管理しろと言われる。画面じゃなく紙で。理由は誰も説明しない。

「悟、飯食わねえの」

 右耳の奥で叔父の声がした。宮内英治、享年四十九。心不全。生前は農業プラントの中間管理職で、死んでからも俺のエージェントとして同じ業界に居座っている。

「台帳の数字が合わないんだよ」

「どこ」

「午前の模擬閣議で承認した第7棟のCO₂排出枠。ドクトリン署名を通したら、カーボン台帳の残高と三トンずれてる」

「署名は通ったんだろ?」

「通った。けど台帳が合わない」

 叔父は鼻で笑った。生きてた頃もこういう笑い方をした。

「署名が通って台帳が合わないなら、台帳のほうが間違いだ。昔からそう」

 そういう話じゃないんだが、と思いつつ俺は台帳の数字を追い直した。高層農業プラントは百二十階建ての水耕タワーで、各フロアが独立した排出枠を持っている。研修ではその差分リクエストを模擬的にレビューさせられる。つまり俺たちは農業を学びに来たのに、半分は内閣ユニットの承認作業を叩き込まれている。

 隣の席の笹本さんが、回覧板を差し出してきた。プラスチックの挟み板に紙が一枚。「研修室備品の利用申請について」。

「宮内くん、スーファミ使う?」

「は?」

「休憩室にスーファミあるの知らない? 昼休み、交代で使っていいって。名前書いて回すだけ」

 回覧板にはすでに五人分の名前が並んでいた。俺は首を振り、板を後ろに渡した。備品のスーパーファミコンは研修棟の開設時からあるらしい。コントローラーの黄ばみが年季を語っていたが、テレビは薄型の壁掛けで、映像はHDMI変換アダプタ経由で妙にくっきり映る。昨日、誰かがぷよぷよを立ち上げていた。

「お前もやればいいのに」と叔父。

「台帳が——」

「三トンのずれだろ。聞いてた。ドクトリンのハッシュ関数、排出枠の小数点以下を丸めてんだよ。去年くらいからそうなった。現場じゃ常識」

 俺は手を止めた。

「……研修で教えないのか、それ」

「教えない。教えたらアルゴリズムの欠陥を認めることになる。講師も知ってて黙ってる」

 叔父の声は、どこか楽しそうだった。自分が死んだ後も世の中が同じ調子で回っていることに安心しているような、そういう声色。

 午後の演習が始まった。俺は台帳の三トンを手書きで修正し、備考欄に「端数調整」と書いた。講師は台帳をちらりと見て、何も言わずに判を押した。朱肉の匂いが鼻に残った。

 帰り際、休憩室を覗いたらスーファミの電源が入ったままだった。画面にはぷよぷよのタイトルが静かに点滅していて、コントローラーだけが床に落ちていた。

 誰もいない部屋で、テレビが「PUSH START」と繰り返している。

 俺は電源を切ろうとして、やめた。三トンのずれと同じだ。誰かが気づいて、誰も直さない。それでプラントは百二十階分の野菜を育て続けるし、ぷよは永遠にスタートを待ち続ける。

「飯、食えよ」と叔父が言った。

 弁当はとっくに冷めていた。