メダルの裏、午前の引き継ぎ
──平成0x29A年08月10日 10:50
ロボ清掃員が通路を横切るたびに、床のリノリウムがきゅっと鳴る。第26インフラブロック、内閣ユニット中継サーバ棟。あたしはそいつが角を曲がるのを待ってから、点検カートを押して保守室に入った。
腰のカラビナが揺れる。家の鍵、保守室の鍵、配電盤の鍵、非常口の鍵。全部で七つ。物理鍵なんて時代錯誤もいいところだけど、ここのサーバ棟は電磁遮蔽が厚くて近傍通信タグが届かない区画がある。だから鍵束。おばあちゃんは「鍵が多い人は偉い人」とよく言っていた。
カートのポケットから携帯端末を取り出す。二つ折りのやつ。背面の小窓に通知が一件。
『倫理検査完了。エージェント〈水島タエ〉復帰まで残り14分。現在は代理が応答します』
十四分か。あたしは端末を開いて、代理エージェントに声をかけた。
「十三番ラックの冷却ファン交換、記録つけて」
『了解しました。作業記録を開始します』
声に抑揚がない。おばあちゃんのエージェントなら「また十三番? あの子は弱いねえ」くらい言うのに。代理は正確だけど、それだけだ。
ファンを外して新品を嵌める。指先にグリスの匂い。ラックの奥で無数のLEDが瞬いている。このひとつひとつが内閣ユニットの処理ノードで、今この瞬間も誰かが五分間の総理大臣をやっている。
ちょうどそのとき、端末が震えた。
『第0x7FA02内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期:10:50:00〜10:55:00』
またか。手がグリスだらけなのに。
「代理、閣議リクエスト出して」
『三件あります。一件目、第26インフラブロック冷却設備更新の予算差分。二件目、近傍通信タグの周波数帯域再割当。三件目——』
「一件目、承認。二件目は?」
『党ドクトリン署名の照合中です。……適合。ただしハッシュ値の下位四桁が既知の衝突パターンと一致しています』
公然の秘密。署名なんてもう飾りみたいなものだ。でも形式上は通さないと先に進めない。
「承認。三件目」
『ロボ清掃員の巡回ルート最適化に伴う人員配置差分。影響範囲にあなたの所属ブロックが含まれます』
さっき廊下で擦れ違ったあいつのルートが変わるのか。自分で自分の職場環境を決裁する妙な感覚。おばあちゃんがいたら笑うだろう。「あんたが偉い人になった日に限ってグリスまみれだよ」って。
「承認」
三件片づけたところで、端末の背面小窓が切り替わった。
『任期終了。お疲れさまでした』
同時に、別の通知。
『エージェント〈水島タエ〉復帰しました』
「おばあちゃん」
『——あら、汗くさいわね。何してたの』
「総理大臣」
『またぁ? で、ちゃんとやった?』
「三件。全部承認」
おばあちゃんは少し黙って、それから言った。
『あたしが検査で寝てる間に、あんたが国を回してたわけだ』
「五分だけね」
『五分でも関係ないよ。タエはね、あんたのお母さんにも同じこと言ったの。鍵を持てる人は、ちゃんと開けなきゃいけない扉がある人だって』
あたしは鍵束を握った。七つの鍵が手のひらに食い込む。お母さんもこの束を持っていた。あたしに渡す前の晩、ゲームセンターに連れていってくれた。メダルゲームで大当たりして、二人でメダルを山ほど抱えて帰った。あのメダル、まだ一枚だけカートのポケットに入っている。お守りみたいに。
ロボ清掃員がまた角を曲がってきた。新しいルートはまだ反映されていない。あたしが五分前に承認した差分が届くのは、たぶん明日。
おばあちゃんが言った。
『ファン、もう一個替えなきゃでしょ。十四番も怪しかったはずよ』
「……知ってたの」
『あたしは寝てても耳はあるの。お母さんと同じ。あんたが泣いてたら起きるし、ラックが唸ってたら気づくわよ』
あたしはメダルをポケットの奥に押し込んで、次のラックに向かった。鍵束がまた、きん、と鳴った。