煤けたページ、1.44MBの聖夜

──平成0x29A年12月25日 12:30

平成0x29A年12月25日、12時30分。

「湊、またそのMD聴いてんのか。クリスマスくらい、もっと令和的な……あ、いや、平成か。もっとナウい曲にしろよ」

耳の奥で、叔父さんの苦笑まじりの声が響く。骨伝導デバイスを通じて届く三上徹の声は、生前よりも少しだけ若々しい。バイク事故で逝ったのは彼が四十二歳の時だったが、エージェントとして再構築された彼は、僕が子供の頃に憧れた「格好いい叔父さん」のままだ。

「いいんだよ。この音飛びしそうな不安定さが、今の季節にはちょうどいいんだ」

僕は、ドラッグストア『マツモトキヨシ・ネオ』のバックヤードで、段ボールの山を崩していた。店内のスピーカーからは、サブスクリプションの月額決済通知と共に、J-POPのクリスマスソングがエンドレスで流れている。網膜に『今月の平成エミュ・プレミアムプラン:2,980円の決済を承認しました』という文字が浮かんで消えた。

今朝、バイオメトリック改札を抜けた時から、街の空気はどこか浮ついていた。網膜スキャンと指静脈、それに皇室遺伝子ネットワークの微弱な共鳴を確認するあの改札を通るたび、自分がこの巨大な連鎖システムの一部であることを痛感させられる。

「お、湊。見てみろよ、棚の奥からとんでもないもんが出てきたぞ」

叔父さんの指示した先、古びたスチールラックの隙間に、分厚い冊子が挟まっていた。引っ張り出すと、それは『ハローページ』と書かれた、黄ばんだ電話帳だった。平成初期の遺物だ。なぜこんなものが、最新の在庫管理システムを回しているバックヤードにあるのか。

「懐かしいな。昔はこれ一冊で、街中の人間の住所がわかったんだ。今じゃ個人情報保護の暗号アルゴリズムで、隣の住人の名前すら怪しいもんだけどな」

パラパラとページをめくる。そこには無数の名前と番号が並んでいた。だが、あるページで手が止まった。

電話番号の列に重なるように、手書きのマジックで、複雑な文字列が書き込まれていた。0xから始まる、見覚えのある十六進法の羅列。それは、内閣ユニットが閣議決定を承認する際に使用する「党」のドクトリン署名アルゴリズムの、生コードそのものだった。

「……叔父さん、これ」
「ああ。隠す気もないな。第402ヘゲモニー期の終わりってわけか」

本来、この暗号はブロックチェーンの深淵に埋め込まれ、誰も触れることができないはずのものだ。だが、目の前の電話帳には、まるで「忘備録」のように、世界の統治を司る署名権限の断片が書き殴られている。おそらく、かつての管理員が、アルゴリズムのバグに対処するために物理的なバックアップとして残したのだろう。

その文字列の横に、小さなフロッピーディスクがセロテープで貼り付けられていた。ラベルには『12/25 署名代行用パッチ』と、震える手つきの文字で書かれている。

「この国の『党』も、実はこんなアナログな手作業で回ってたのかもな」

叔父さんの声が少しだけ優しくなった。アルゴリズムの露出。それは本来、世界の崩壊を意味する大スキャンダルだ。だが、煤けた電話帳と1.44MBのディスクを眺めていると、不思議と恐怖は湧いてこなかった。

誰かが、この歪な世界を維持するために、必死にメモを書き、ディスクにデータを焼き、このバックヤードで戦っていた。システムが自動で回っているように見えて、その実、名もなき誰かの「手触り」が、この平成0x29A年まで歴史を繋いできたのだ。

僕は、その電話帳を元の隙間にそっと戻した。通報する必要も、破棄する必要もないと感じた。

「湊、休憩終わりだ。表の棚に、新発売の『貼るカイロ・ミレニアム』を出してこいよ」

「わかってるよ」

僕はMDウォークマンの停止ボタンを押し、エプロンを整えた。バックヤードの扉を開けると、センサーが僕のバイオメトリクスを読み取り、自動で開く。

表の売り場には、偽物の雪がホログラムで舞い、人々が楽しそうに買い物をしている。アルゴリズムが露出し、統治が末期を迎えていようと、この平穏なエミュレーションは、誰かの意志によって明日も続いていくのだろう。

外はきっと、本物の雪が降り始めている。そんな予感がした。