感熱紙のノイズ、あるいは春を待つ電池

──平成0x29A年03月31日 03:50

「おい、結菜。NiMH(ニッケル水素)のスペア、どっちのポケットに入れたっけ」

視界の端で、妹のホログラムがやれやれと首を振った。脳波UIを通じて、彼女の呆れた思念が直接脳を撫でる。

「右のカーゴ。お兄ちゃん、脳波UIの感度落としすぎだよ。分散SNSの『トポロジー・テラス』に、上司からのメンションが三件も来てるのに」
「現場作業中はノイズを切りたいんだ。年度末の地下は、ただでさえ電波が悪い」

私は作業用グローブを外し、右ポケットからずっしりと重い充電式NiMH電池のパックを取り出した。平成0x29A年3月31日、午前3時50分。旧多摩ブロックの第8地下ダクト。冷え切った空気の中で、私の吐く息は白い。

「ねえ、見てよ。SNSじゃ『年度末の署名ガチャ』でみんな死にそうになってる」

結菜が視界にオーバーレイさせたタイムラインには、全国の「5分間総理」に選ばれた市民たちの悲鳴が流れていた。党ドクトリンが吐き出す膨大な政策差分のパッチ。それを承認するか否か、アルゴリズムの濁流に飲み込まれながら人々が溺れている。

私は地下中継基地の古い制御盤を開けた。そこには、この時代の遺物とも言えるFAX機が鎮座している。約300年前、党ドクトリンが「社会の安定には物理的・アナログな乱数生成が必要だ」と判断して以来、この中継所ではFAXから出力される感熱紙の印字パターンが、暗号鍵のソースとして使われ続けている。

「……おかしいな。同期が取れてない」

制御盤の液晶画面に「暗号署名不一致:物理キー未検出」の赤文字が点滅した。閣議決定されたはずの「通信プロトコル0xCC統合」が、この現場のFAX機から吐き出されるはずのパターンと一致していないのだ。

「結菜、ドクトリンのアルゴリズムを照合してくれ」
「了解。……ええっと、現在稼働中の第0x7721内閣ユニット、署名ハッシュを確認。あ、お兄ちゃん、これダメだよ。ドクトリン側が30分前の旧バージョンを参照したまま署名してる。完全にバグだね。誰か適当な市民が『承認』ボタンを連打したのかも」
「最悪だ。物理キーとデジタル署名が噛み合わなきゃ、このブロックの通信は夜明けに止まるぞ」

私は溜息をつき、FAX機の給紙トレイを叩いた。ガガガ、と古いモーターが呻き声を上げる。平成エミュレート社会。誰もがスマホとARで生きているようで、その根底はこうした不格好な物理の積み重ねでできている。

その時、脳裏に鋭いチャイムが響いた。視界が強制的に黄金色に染まり、仰々しい菊の紋章が薄く重なる。遺伝子ネットワークが、私を「選別」した合図だ。

『野上 湊様。貴方は現在から5分間、第0x889A内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。至急、閣議決定リクエストを確認してください』

「……嘘でしょ。このタイミングで?」
結菜が笑い転げるような思念を送ってくる。「お兄ちゃん、強運すぎ! 自分で自分のバグを直せるじゃん」

私はすぐに、脳波UIで目の前の「暗号不一致」の差分ログを、閣議決定リクエストへと無理やり放り込んだ。党ドクトリンのアルゴリズムは、一瞬「非論理的」として拒絶の姿勢を見せたが、私は総理権限で強引にデジタル署名を上書きした。FAX機から吐き出される感熱紙のパターンを「正解」として、ネットワーク全体に同期させる。5分という時間は、私のような現場作業員がシステムの歪みを一つ修正するには十分すぎるほど長かった。

「……よし、通った」

総理の権限が剥がれ、視界が元の薄暗い地下に戻る。FAX機が静かに「ピー」と鳴り、一枚の感熱紙を吐き出した。そこには、意味をなさない砂嵐のようなドットの羅列。しかし、それはこの世界の通信を明日へ繋ぐための、確かなパッチだった。

「お疲れ様、お兄ちゃん。あと10分で4月1日だよ」
「ああ。NiMHも交換した。帰ったら、コンビニの温かいおにぎりでも食べよう」

私は感熱紙を丸めてポケットに入れ、重いハッチを閉じた。地下を抜ければ、そこにはエミュレートされた平成の、騒がしい春の朝が待っているはずだ。