走査線の雪、露光する新年
──平成0x29A年12月31日 21:40
地下三階の監視室には、特有の湿った埃の匂いが充満している。頭上を走るダクトの中では、物流用群ロボットたちが無数のゴキブリのように這い回り、地上へ向けて「お歳暮」や「年越しセット」を運び続けていた。その駆動音が、低い唸りとなって天井を震わせている。
「おい啓太、CRTのフォーカスが甘くなってるぞ。叩いて直せ」
脳内のスピーカーから、しわがれた声が響く。祖父の厳(げん)だ。享年七十八、元・町工場の旋盤職人。頑固で口が悪く、デジタルの機微には疎いが、機械の機嫌だけはやたらと鋭く察知する。
「叩いても直らないよ、じいちゃん。これ、もう寿命なんだ」
私はため息をつきつつ、デスクの上の分厚いCRTモニターの側面を掌でバンと叩いた。ガラス面を走る走査線が一瞬揺らぎ、不快な高周波ノイズが変化する。画面には緑色の文字で、第9物流ブロックの稼働状況が表示されていた。平成エミュレート様式によって維持された、古色蒼遠としたコマンドライン・インターフェースだ。
時刻は二十一時四十分。平成0x29A年も、あと二時間少々で終わる。
不意に、部屋の隅にある空気輸送管がカコン、と音を立て、プラスチックのカプセルを吐き出した。中から取り出したのは、安っぽいバインダーに挟まれた「紙の回覧板」だ。隣の第8給電区画からの定時連絡である。
『異常なし。年末特別警戒実施中』
ボールペンで掠れた文字が書かれている。私はその下の欄にシャチハタのハンコを押し、再びカプセルに戻して送り返した。ブロックチェーンで高度に暗号化された世界において、この物理的な紙のやり取りこそが、最強のセキュリティだと信じられている。滑稽だが、それが党ドクトリンだ。
その時、モニターの画面が激しく明滅した。
「あんだ? また信号が混線してんのか」
祖父が訝しむ。だが、画面に映し出されたのは、いつもの物流ログではなかった。緑色の文字が崩れ、雪のようなノイズの奥から、赤黒い文字列が滝のように流れ落ちてきたのだ。
—— 0x5F3A... Auth_Key_INVALID... DOCTRINE_OVERRIDE...
「なんだこれ……」
私は慌ててスマホを取り出し、「記憶補助アプリ」を起動した。私のような中年世代は、複雑化しすぎた業務手順を脳だけで保持できない。ARカメラ越しに画面を覗き込むと、アプリが警告ポップアップを乱発した。
『警告:未定義の署名アルゴリズムを検出』
『直視しないでください。倫理汚染の可能性があります』
いつものバグではない。これは、世界の裏側を支えている「党」の署名アルゴリズムそのものだ。それが剥き出しになって、CRTの走査線の隙間から漏れ出している。
「啓太、見ろ。数字が減ってやがる」
祖父の声に促され、目を凝らす。文字列の末尾にあるヘックスコードが、カウントダウンのように減算されていた。それがゼロになる瞬間、何が起きるのか。
物流ロボットたちの足音が、不協和音のように乱れ始めた気がした。荷物の配送先が書き換わっているのか、あるいは中身がすり替わっているのか。私には確かめる術がない。
「じいちゃん、これ、報告したほうがいいかな」
「やめとけ。触らぬ神に祟りなしだ。どうせ上の連中は、紅白歌合戦のアーカイブでも見ながら酒飲んで寝てるさ」
私は震える手で、CRTの電源ボタンに指をかけた。スイッチを切れば、この不気味な文字列は見えなくなる。だが、裏で進行している処理は止まらない。
パチン、と静電気が弾ける音がして、画面は暗転した。残光が白い点となって中心に吸い込まれ、消える。
頭上の駆動音は続いている。だが、そのリズムは先ほどとは決定的に何かが違っていた。まるで、心臓の鼓動が一つだけ飛んだ後のような、奇妙な違和感。
私は暗い画面に映り込んだ自分の顔を見つめた。新年は来る。だが、その「平成」が、昨日までの続きである保証は、もうどこにもなかった。