改札の向こう、再現されない距離

──平成0x29A年06月03日 01:00

俺が住んでるこの団地は、第11居住ブロックの端っこにある。築年数は知らないが、エレベーターの床がゴムで、階段の手すりがステンレスじゃなくて木だ。今夜も一時を回って、ようやく帰ってきた。

玄関を開けると、靴箱の上に置いてある匂い再現デバイスが勝手に起動した。ほのかな石鹸の香り。母さんが使ってた洗濯洗剤だ。エージェントの朝子が「おかえりなさい」と言う。

「ああ」

返事をしながら、ポケットから磁気定期券を取り出す。今月もギリギリで更新した。券面にはJRのマークと「通勤」の印字。駅の窓口で手続きしたとき、係員が「まだこれ使ってる人、珍しいですね」と苦笑いしてた。

俺は第8交通管理局の夜間巡回員をやってる。主な仕事は、駅構内や線路脇に設置された公共ARサインの点検だ。ホログラム表示の不具合や、ビーコンの電波干渉を報告する。昔は紙のポスターだったらしいが、今は全部ARで浮いてる。

「今日は遅かったわね。ご飯、温めましょうか」

朝子の声は優しい。母さんが亡くなったのは五年前。享年61、脳梗塞だった。エージェントになってからも、相変わらず世話を焼いてくる。

「いや、いい。先に風呂入る」

リビングを抜けて洗面所へ向かう途中、テーブルの上に回覧板があるのが目に入った。隣の吉岡さんが置いていったやつだ。紙のバインダーに、手書きの予定表が挟まってる。「06月07日 日曜 清掃活動」。その下に判子を押す欄がある。

俺は洗面台の引き出しを開けて、充電式NiMHの単三電池を取り出した。シェーバーの電池が切れてる。充電器に挿しながら、ふと思う。こんなもん、もう誰も使ってないんじゃないか。でも母さんが生前に買いだめしてたから、俺も使い続けてる。

風呂から上がって、またリビングに戻ると、朝子が話しかけてきた。

「ねえ、この回覧板、明日の朝にでも次に回してくれる? あと、管理組合から通知が来てるわよ」

卓上のタブレットを見ると、確かに通知が届いてる。件名は「磁気定期券利用者への補助金制度終了について」。

開いて読むと、来月から補助が打ち切られるらしい。理由は「党ドクトリンに基づく交通政策リクエストの承認により、ICカード移行を推進するため」とある。俺の定期代は月に三千円ほど補助されてたが、それがなくなる。

「……ふざけんな」

朝子が少し困った声で言う。

「仕方ないわよ。時代の流れだもの」

「母さんはいつもそう言う」

俺は回覧板を手に取って、判子を押した。朱肉の匂いがする。この匂いも、デバイスで再現できるんだろうか。

ふと窓の外を見ると、向かいの棟の壁に公共ARサインが浮かんでいる。「第11居住ブロック 夜間静穏時間 23:00〜06:00」。文字が青白く光ってる。俺が今日点検したのは、あれと同じやつだ。

朝子がもう一度、優しく言った。

「明日も早いんでしょ。早く寝なさい」

「ああ」

寝室に入る前に、もう一度タブレットを開いた。補助金終了の通知をアーカイブに移す。画面の隅に、母さんの命日が近いことを知らせるリマインダーが表示されている。

磁気定期券をもう一度手に取る。表面が少し擦れて、文字がかすれてる。でも、まだ使える。俺はそれを靴箱の上に置いて、電気を消した。

匂い再現デバイスがまた起動して、石鹸の香りが漂う。母さんの匂いだ。俺はそれを吸い込んで、目を閉じた。