ベンチの遅れ、冬のシャトル停
──平成0x29A年12月15日 18:50
平成0x29A年12月15日、18:50。
公園の時計塔のアナログ時計が、今日も十秒ほど遅れている。秒針が、冷えた空気を引っかくみたいにカチ、カチと鈍い。
「それ、またズレてるわよ」
耳の奥で母の声がした。私のエージェントは母の人格で、亡くなってからもこういう小言だけは健在だ。
「直すの俺じゃないって」
私はベンチの下にしゃがみこんで、時計塔の根元にあるメンテ端子へスマホを近づけた。見た目は折りたたみのガラケーみたいな筐体なのに、画面はサブスク広告が勝手に流れてくる。平成っぽい顔をして、裏側は平然と最新だ。
端子から引っ張り出したログは短い。
【公共時刻同期:NTP-Emu/Heisei 補正+0.0 外部署名:未添付】
未添付。つまり、どこかの「内閣ユニット」からの承認印がない。
「ほらね、紙の時代みたいに誰かが押さないと動かないのよ」
母は勝ち誇ったように言う。母は生前、区の時計合わせボランティアをしていた。そんなもの、今は差分リクエストが承認されるまで触れないのがルールだ。
私は公園管理の委託保守員だ。街灯と噴水と時計塔。大事だけど、どれも“微細”で、壊れてもすぐには誰も死なない。だから後回しにされる。
ベンチに腰を戻すと、MDプレーヤーのリモコンが制服のポケットで当たった。ケーブルは細く、イヤホンは片耳だけ生きている。ケースには手書きで「冬の寄せ集め」とある。
再生すると、シャー、という磁気の粒が先に鳴って、その奥から昔のバンドのギターが出てくる。ストリーミングでも聴けるのに、わざわざMDに落として持ち歩くのは、母の趣味が移植されてしまったせいだ。
シャトル停留所の縁石が光って、自動運転シャトルが滑り込んできた。無人。車内のディスプレイに「本日の運行:節電プロファイルB」と出る。
シャトルのドアが開きかけて、途中で止まった。
キュ、と鳴って、また閉じる。
「ほら、インフラが咳してる」
母が言う。
次の瞬間、上空で羽音。自律警備ドローンが二機、時計塔の周りを円を描いて回り始めた。レンズが私の手元と端子を交互に覗く。
【公共設備への接続を検知】
【目的を申告してください】
私は腕輪端末の申告ボタンを押す。
「保守です。時刻同期のズレ。シャトル停留所のドアも」
ドローンの合成音声が少し間を置いて返す。
【当該修正は“差分断片”として提出可能です】
【提出先:第0x9F31A 内閣ユニット/審査待機 4分58秒】
“待機”という言葉がやけに生々しい。誰かが今、どこかで五分だけ総理をしている。私の小さな困りごとが、その人の机に、あるいは机の代わりの何かに積まれる。
「出しなさいよ」
母が急かす。
私は差分断片を作る。
“公園時計塔:外部署名未添付のため時刻同期が凍結。補正許可を要求。”
“停留所ドア:節電プロファイルBで閉塞。解錠例外の追加。”
送信ボタンを押すと、画面に見慣れない行が浮かんだ。
【党ドクトリン署名:検証スキップ(既知鍵)】
既知鍵。つまり、もう皆が解ける程度に穴が空いている。
「それ、見なかったことにしなさい」
母の声が、急に小さくなる。
シャトルのドアが、もう一度だけ試すみたいに動いて、今度は最後まで開いた。中の空気が温かい。座席の端に、忘れ物のビニール傘が一本転がっている。
時計塔の秒針も、わずかに速くなった気がした。遅れが埋まるほどじゃない。でも、今日の十秒は、戻ってきた。
ドローンが私の頭上で停止し、低い音で告げる。
【審査結果:暫定承認】
【適用期限:72時間】
暫定。いつもの先送りだ。
私は立ち上がって、端子カバーを閉めた。手袋越しに金属が冷たい。
「ねえ」
母が言う。「あなた、昔から時計が遅れてると落ち着かなかったわよね」
「母さんのせいだろ」
口に出した瞬間、自分の声が公園に残ってしまうのが恥ずかしくて、咳払いでごまかした。
シャトルの車内スピーカーが、平成っぽいチャイムのあとに案内を流す。
「まもなく発車いたします。お乗りのお客様は—」
乗る客なんていない。けれどドアは開いたままだ。
私はMDのボリュームを一段下げ、ベンチに置いていた紙のメモを折りたたんだ。倫理検査の案内状だ。母のエージェントは来週、法定の検査で一時停止になる。
「検査、嫌?」と母が訊く。
「……嫌じゃない。困るだけ」
「ふうん」母は笑う。「じゃあ、言いなさいよ。困るってことは、必要ってことよ」
私は時計塔を見上げた。秒針がちょうど、数字の上を踏んだ。
「母さんがいないと、俺、こういうの直したふりして放っておく」
告白みたいに言ってしまって、耳が熱くなる。
ドローンが一機、私の肩の高さまで降りてきて、淡々と記録を残す。
【音声:非業務発話/保存しません】
保存しません、の一言が、なぜか救いに聞こえた。
シャトルが無人のままゆっくり走り出す。開いていたドアは、きちんと閉まった。
公園のアナログ時計はまだ少し遅れている。
でも私は、その遅れの分だけ、母と話していられる気がした。