観光案内図の角で鳴る送信音

──平成0x29A年03月07日 09:30

平成0x29A年03月07日、09:30。駅前の観光案内所は、朝の雨の匂いとコピー紙の熱でむっとしていた。

「次の方どうぞ。…はい、“来訪者用・滞在許可の差分”ですね」

カウンター越しに差し出されたのは、紙の申請書と、薄いフロッピーディスク。今どき観光客がそれを持ってくるのは珍しくない。平成エミュのせいで、キャリーケースの横にMDウォークマン、首からは翻訳サブスクのタグ、手元はガラケー型のAR投影という混線が普通になった。

私の左手首の触覚フィードバック端末が、受付番号を刻むみたいに小さく震える。エージェントの声が耳の奥で咳払いした。

『菜月、紙は曲げるな。角が立つとクレームが来る』

叔父の真一。享年五十七。観光バスの整備中に事故死。今は私の手順を見張る人格移植の補助役だ。

「大丈夫、叔父さん。今日は静かだよ」

静か、のはずだった。

端末が二段階で震えた。いつもの通知と違う、少し遅れて重い振動。

【臨時職務割当】
あなたは第0x8C1F2内閣ユニットの内閣総理大臣です(05:00)
党ドクトリン署名:要

「……は?」

カウンターの下で私は息を飲む。来訪者は私の笑顔だけを見ている。

『来たな。五分だ。背筋を伸ばせ』

叔父がやけに落ち着いているのが腹立たしい。

「ええと、確認に少々…」

私は観光パンフの束で視線を隠しながら、裏の事務卓に滑り込んだ。そこには年代不詳のFAX機が鎮座している。紙が出てくる音が好きだと言う所長の趣味で残っている。

端末の画面には、“差分断片”がずらりと流れていた。

【政策変更リクエスト】
来訪者向け「滞在許可・一時増枠」
根拠:現行制度との差分Δ=+0.3%
影響:観光ブロック混雑
署名要求:党ドクトリンv402

もう一件。

【政策変更リクエスト】
時間貸しCPU料金の上限撤廃(繁忙期)
影響:小規模事業者コスト増

そして、目の前の机のフロッピー。

来訪者が持ち込んだ“滞在許可の差分”は、ネット経由だと検疫で弾かれるから、物理媒体で持ってくるのだ。うちの案内所は、観光客のために古い読取機を置かされている。

『落ち着け。いま承認すると、増枠が走る。混むぞ。お前のカウンターが』

「混むのは嫌だな…」

触覚端末が、急かすように連続で震える。残り時間が指先に伝わってくる。五分の首相職なんて、観光案内の合間にやらせる仕事じゃない。

私は時間貸しCPUのアプリを開いた。平成っぽいiモード風のメニューのくせに、裏ではクラウドの計算資源を分単位で借りられる。

【CPUレンタル:5分】
観光案内所アカウント(公費枠)

「……公費枠、あるのか」

『ある。だが使うと記録に残る』

「記録に残るのは仕事でしょ」

私は借りたCPUで、党ドクトリン署名の検証を走らせた。末期だ、解読屋じゃなくても“穴”の位置くらいは皆知っている。検証ログの行末に、見慣れない文字列が混じった。

【署名補助メッセージ】
FAX送信により補助鍵を取得可能

「……は?」

冗談みたいに、端末が一度だけ“コトン”と震えた。触覚が、肯定の合図みたいで腹が立つ。

私はFAX機の前に立ち、観光案内図の余白にある“送信先一覧”を見た。『党ドクトリン補助窓口』の番号が、普通に書いてある。

『送れ。平成の役所は最後にFAXだ』

叔父が得意げに言う。

私はフロッピーのラベルを見た。

《滞在許可Δ/南港ホテル》

来訪者は、外で傘をたたみながら待っている。私はその人のために、内閣総理大臣としてFAXを送ることになる。

紙を差し込み、番号を押した。ピッ、ピッ、という音。送信のきしむような回線音が、案内所の朝に混ざった。

端末が、指先に“受信”のざらつきを返してきた。

【補助鍵取得】
署名可能(残り 01:12)

私は急いで二件を見比べた。

滞在許可の増枠は、今この窓口で行列を生む。時間貸しCPUの上限撤廃は、観光案内所の計算資源コストも上がる。どっちも嫌だ。

でも来訪者の目の前のフロッピーは、今日ここに泊まるための“差分”だ。

『菜月、個別の人間を見ろ。制度は後から追いつく』

叔父が珍しく柔らかい声を出した。

私は滞在許可増枠だけを承認し、CPU料金の上限撤廃は非承認にした。指先が最後に強く震える。残り時間がゼロになり、画面が何事もなかったように案内所の受付アプリへ戻る。

私はカウンターに戻り、笑顔を作った。

「お待たせしました。こちら、受理できました。…ええと、滞在許可、通ってます」

来訪者はほっとして、深く頭を下げた。

その瞬間、外の広場がざわめいた。観光客の流れが、急に太くなる。端末の通知が雪崩みたいに来る。

【滞在許可・一時増枠 発効】
【来訪者推計 +0.3%】
【案内所混雑予測:警戒】

『言っただろ。混むぞ』

叔父が笑った。

私はFAX機の方を見た。ちょうど、送信完了のレポートが吐き出されている。そこに小さく印字されていた。

《送信者:第0x8C1F2内閣ユニット 内閣総理大臣(観光案内所臨時)》

「……臨時、って書くなよ」

次の来訪者が、またフロッピーを掲げて立った。さらにその後ろで、別の客が時間貸しCPUの割引クーポンをFAXで送ってほしいと言い出す。

私の触覚端末が、仕事の始まりみたいに、また小さく震えた。

五分の首相は終わったのに、平成の雑務だけが増えていく。滑稽で、ちょっとだけ笑えた。