判を押す音は、ばあちゃんの声

──平成0x29A年01月28日 16:00

バックヤードの壁に掛かったアナログ時計の秒針が、カチ、カチ、と重たい音を立てていた。もうすぐ午後四時。省人化レジの導入で減った人員の皺寄せは、全部この薄暗い裏側に溜まっていく。

『効率化目標達成率:98.2%』

ホログラム掲示板が、どこか懐かしい平成明朝体のフォントで無機質な数字を浮かび上がらせている。その隣には、今日の特売品のリスト。俺は発注用の端末を睨みながら、明日の仕入れ数を入力していた。

「優。また来てるよ、あのくだらないお達しが」

脳内に直接、呆れたような祖母の声が響く。視線を上げると、視界の隅に赤い通知アイコンが点滅していた。

『通達:第0x3C8A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命。任期は現時刻より5分間とします』

またか。忘れた頃にやってくる、この電子的な貧乏くじ。
ほぼ同時に、もう一つのウィンドウが自動で開く。閣議案件、と冷たいゴシック体で書かれている。

【議案番号28-402:地域巡回型小口配送サービスの非効率指定と段階的廃止について】

うちの店、サカガミマートが昔から続けている、じいちゃんばあちゃん向けの御用聞きサービスのことだ。党ドクトリンのアルゴリズムは、こういうのを目の敵にする。

「非効率、非効率って、うるさいったらありゃしない。効率だけで商売ができるもんかね」

エージェントになった祖母、フミさんが吐き捨てる。この店を一人で大きくした、肝っ玉ばあちゃんだ。最後までレジに立っていたが、三年前に老衰で大往生した。

「でも、ばあちゃん。先月も非承認にしただろ。しつこいな」
「党だか何だか知らないけど、あちらさんも仕事だからねぇ。機械的にリクエストを投げるだけさ。こっちも機械的に突っぱかえしてやりゃいいんだよ」

承認、非承認。二つのボタンが目の前で明滅している。承認すれば、面倒はなくなる。監査もないだろう。でも、雨の日に「坂田さんとこのお兄ちゃん、いつもありがとうね」と湿布薬の匂いがする手で握られた、缶コーヒーの温かさを忘れることになる。

『残り任期:3分20秒』

時計の秒針がやけに大きく聞こえる。
俺は机の引き出しから、ずしりと重い金属製の物体を取り出した。ハンコだ。朱肉はいらない。このハンコの形をした物理インターフェースを認証パッドに押し当てることで、正式な署名として記録される。なんでこんな古めかしい手続きが残っているのかは、誰も知らない。

「優」

ばあちゃんの声が、少しだけ真剣な色を帯びた。

「あんたはどうしたいんだい?」

どうしたい、なんて。決まってる。
あの人たちの顔が浮かぶ。毎週の配達を、世間話を、楽しみにしている人たちの顔が。

「…続けたいよ、ばあちゃん。俺が、この店を継いだ意味がなくなる」

「そうかい。だったら、とっとと押しちまいな」

迷いは消えた。
俺は「非承認」と刻まれたハンコを握りしめ、認証パッドに力強く叩きつけた。
ガシャン、と重く、鈍い音が響く。

『閣議決定:第28-402号議案は否決されました』

ふぅ、と息を吐いた瞬間、バックヤードの扉が勢いよく開いた。

「坂田さーん! 4番レジ、応援お願いしまーす!」

アルバイトの高校生が、ひょっこりと顔を出した。日常の音だ。俺は「すぐ行く」と短く答える。

「それでいいんだよ」

脳内で、ばあちゃんが満足そうに笑った気がした。

視界の隅で『内閣総理大臣の任期が終了しました』というそっけない通知が静かに消えていく。俺は少しだけ胸を張って、喧騒が待つ売り場へと歩き出した。