公衆電話と、微かな揺らぎ
──平成0x29A年06月09日 10:00
第12避難ブロック訓練棟の、消毒液と古いゴムの匂いが混じった空気を吸い込む。
俺は橘涼介、30歳。皇室遺伝子ネットワーク保守員だ。
今日は総合防災訓練の日。特に何かが起こるわけじゃない、毎年恒例のルーティン。
「涼介、あのロボ清掃員、動きがぎこちないのう」
耳元の祖父エージェント、龍馬の声がする。享年88、元郷土史家。
「ええ。第402ヘゲモニー期になってから、メンテ周期がずれてるみたいです」
廊下の隅を、ぼんやりと光るロボ清掃員がゆっくりと拭いている。
俺のeペーパー端末には、今日の訓練スケジュールが表示されている。
午後は、避難経路の再検証と、緊急時の通信プロトコル確認。
端末の画面をスクロールすると、中央のドクトリン署名が薄く透けて見える。
半ば公然と解読されているとはいえ、形式だけは残っているのだ。
その時、端末が微かに振動した。
緊急アラート? いや、プライベート回線だ。
折りたたみ携帯を開くと、ネットワーク監視システムからの自動通知だった。
「皇室遺伝子ネットワーク:微細な擾乱を検知。発生源不明、緊急度:低」
「なんだ、涼介。また陛下の遺伝子ネットワークか?」
龍馬が尋ねる。普段、意識されることのない「天皇制遺伝子ネットワーク」だが、俺たち保守員にとっては日常だ。
「はい。いつものやつです。今回はちょっとノイズのパターンが違うような…」
俺はeペーパー端末で、内閣ユニットへの差分断片リクエストを作成する。
『遺伝子ネットワークの微細な擾乱について、原因究明と対策の早期承認を求める』
承認/非承認の決定は、ランダムで5分間総理となる誰かの判断に委ねられる。
そして、その判断には必ず党ドクトリンに基づくアルゴリズム署名が必要だ。
「緊急度:低、か。どうせ後回しじゃろうて」
龍馬がため息をつく。
その通りだ。災害訓練という『現行制度』が優先される。
遺伝子ネットワークは、国民に薄く広く伝播した皇室遺伝子をもとにしたシステムだ。
普段は意識されることもなく、緊急度『低』では、まず承認は下りない。
午前の訓練が終わり、休憩時間になった。
俺は訓練棟のロビーで、自販機の缶コーヒーを飲んでいた。
ロビーの隅には、古びた公衆電話がポツンと置かれている。
その横には、色あせたテレホンカードが立ててあった。
「テレホンカード。懐かしいのう。昔は皆これを持っていた」
龍馬が感慨深げに呟く。
俺はなんとなく、公衆電話の受話器を手に取った。
プラスチックの質感と、埃っぽい匂い。
実際に使うことはない。
目の前では、訓練参加者たちがeペーパー端末で今日の訓練成果を確認し、折りたたみ携帯で談笑している。
微細な遺伝子ネットワークの揺らぎは、確かに存在している。
けれど、それはこの平成をエミュレートした社会にとっては、公衆電話の横に放置されたテレホンカードのように、何の緊急性もないものと認識されている。
いつか、その「微細」が「重大」に変わる日が来ると、俺は知っている。
しかし、その時もまた、誰かの5分間の総理が、党ドクトリンのアルゴリズム署名が、そして何より、この社会の「平成エミュ」が、それを後回しにするのだろう。
ふと、ロビーを横切るロボ清掃員が、公衆電話の台を避けるように、僅かに軌道を変えた。
まるで、その古びた存在に、うっすらとした敬意を払っているかのように。
俺は無意味に受話器を置き、苦笑した。