磁気の残り香、午後十時のデジタルツイン

──平成0x29A年07月10日 22:50

 VHSテープの背ラベルには、手書きで「点検手順・第22保守棟B系統」と書いてある。

 俺はそれを巻き戻し機にかけながら、もう片方の手でテレホンカードを端末のスロットに差し込んだ。残度数38。保守棟の固定回線は未だにこれでしか外部認証が通らない。

「磯山さん、巻き戻し終わるまでに回線繋いどいたほうがいいよ」

 耳の奥で母さんの声がする。エージェント・磯山弘恵。享年51。膵臓癌。死んでからのほうがよく喋る人だ。

「わかってる」

 俺は第22インフラ保守棟の夜間点検員で、今夜の仕事は地下サーバ群のデジタルツイン同期チェックだった。住民の生体データ、行動ログ、購買履歴——それらの鏡像であるデジタルツインが、物理層と正しく対応しているかを月次で確認する。地味で、退屈で、だが一度ズレると住民が行政上「存在しない」ことになる。

 テレホンカードの認証が通り、端末の画面が青く光った。iモード風のメニューが縦に並ぶ。俺は「B系統・ツイン同期ステータス」を選んだ。

 エラーが三件。

 棟内の2041号室、2055号室、2098号室。いずれもデジタルツインの最終同期が72時間以上前で止まっている。ツイン側のタイムスタンプだけが進み、物理層のデータが凍結したまま追従していない。

「三件同時は珍しいね」と母さんが言った。「ハブの物理障害じゃない?」

「かもな」

 俺はVHSの手順映像を確認しようとしたが、テープが途中で歪んでいて画面が砂嵐になった。仕方なく記憶と勘で地下のハブ室に降りる。蛍光灯が一本切れていて、残った一本がじいじいと鳴っている。

 ハブ自体は正常だった。ケーブルの物理接続も問題ない。

「ねえ、これ見て」

 母さんがログの一部を俺の視界端に展開した。三件のツインデータ、凍結の直前に同じ量子署名が付与されている。閣議決定に使われる、あの党ドクトリンの署名だ。

「点検処理で量子署名なんか使わないだろ」

「使わないね。普通は」

 俺は端末に戻り、署名のハッシュを検索にかけた。該当する閣議決定は存在しない。署名だけが、三人の住民のデジタルツインに貼りついている。正規の閣議を経ていない、けれど形式上は完璧な量子署名。

 ——半ば公然と解読されている、という噂を思い出した。

 誰かがドクトリンの署名を偽造して、三人のツインを意図的に凍結させた。物理層との乖離が進めば、三人は行政上ゆっくりと消えていく。届く通知も届かなくなり、閣議リクエストも出せなくなり、エージェントの法定検査すら受けられなくなる。

「報告しなきゃ」と母さんが言う。

 俺はテレホンカードの残度数を確認した。24。報告用の回線を開くには足りる。

 だが報告先はどこだ。内閣ユニットは数十万あり、担当は5分で変わる。保守棟の上位管理者への連絡チャネルは、同期が正常であることを前提に設計されている。

「……母さん、この署名、他の棟にも出てると思うか」

 沈黙。

 蛍光灯がまた一回、大きく瞬いた。

 俺はVHSテープを巻き戻し機から抜いて、砂嵐の残像がまだ目の裏にちらつくのを感じながら、階段を上がった。報告はする。するが、届く保証はない。

 テレホンカードの残度数が、また1減っていた。使った覚えはない。