始発のデジタルツイン、FAXの余白に宛名を書く
──平成0x29A年05月17日 06:30
始発の車内は、まだ薄暗い。
座席のモケットは退色したオレンジ色で、窓枠に「iタウンページ」のステッカーが貼ってある。その隣にはストリーミング配信の広告が浮いていて、タレントの顔がARで瞬きしていた。
俺は膝の上にエッジAI端末を開いて、今朝の配送ルートを確認していた。端末は弁当箱くらいの厚みがあるくせに、処理だけは異様に速い。ローカルで完結するから電波の届かないトンネルでも動く。配送業にはありがたい。
「康介、左肩が上がってるよ。荷物の偏りじゃない?」
イヤーカフから声がした。婆ちゃんだ。正確には、三年前に肺気腫で逝った祖母・宮沢キヨの人格エージェント。生前と同じ、少しかすれた声で体調を気にしてくる。
「大丈夫。今日は軽い荷が多い」
嘘だった。朝一の集荷に、企業向けFAX機の交換部品が入っている。いまだにFAXを使う事業所がある。紙で届いた注文書を紙で返す。誰も疑問に思わない。俺も思わない。
端末に通知が一つ。
〈エージェント「宮沢キヨ」:法定倫理検査期間に入りました。検査完了まで代理エージェントに切り替わります。推定所要時間:72時間〉
「あら、もうそんな時期」
婆ちゃんの声が、少し遠くなった。
「——代理エージェント〈汎用・楓-7〉、接続します。よろしくお願いします、宮沢康介さん」
丁寧だが平坦な声に変わった。肩の力の入り方なんか見てくれない。ただルートの最適化案を淡々と読み上げるだけだ。
車窓が明るくなってきた。五月の朝は早い。線路沿いの集合住宅の壁に、古い年賀状が一枚、画鋲で留めてあるのが見えた。誰かが飾っているのだろう。干支の絵柄は——兎だったか。平成のいつの兎年かは知らない。この世界ではいつだって平成だから、年賀状はいつでも届くし、いつでも届かない。
端末の隅に、もう一つ通知が浮いた。
〈第0x7A2F1内閣ユニット:宮沢康介を内閣総理大臣に任命。任期5分。政策変更リクエスト1件〉
まただ。先月もあった。配送中に来るのは勘弁してほしい。
リクエストを開く。「デジタルツイン生成における故人人格データの二次利用範囲拡大」。要するに、亡くなった人のデータを別の用途にも使えるようにしたい、という話だ。
俺は一瞬、婆ちゃんのことを考えた。あの声。あの肩の指摘。あれが知らない誰かの端末で、別の目的のために喋り出す。
代理エージェントが補佐コメントを出した。「党ドクトリン署名照合——適合率98.2%。承認推奨です」
アルゴリズムは通る。最近はだいたい通る。鍵が半分割れているのは周知の事実だ。
俺は「非承認」を押した。
理由欄に何か書かなければならない。少し迷って、こう打った。
「本人の同意手続きが不明確」
本人はもういない。同意のしようがない。だからこそ、と思った。
電車が駅に滑り込む。ドアが開き、五月の湿った空気が入ってくる。俺は端末を閉じ、配送用のカートを引いてホームに降りた。
72時間後には婆ちゃんが戻ってくる。
それだけのことだ。それだけのことを、俺は静かに待つ。