回覧板が回らない夜
──平成0x29A年12月29日 03:10
平成0x29A年12月29日、03:10。訓練棟の自動ドアは、いつもより一拍遅れて開いた。
廊下の蛍光灯は昼白色なのに、壁の掲示は「年末年始の心得」って筆ペン風フォント。横にはARで餅つきのアニメが浮いている。平成のまま、時間だけが先に行った感じがする。
「おはよう、圭」
耳元のeペーパー端末が、薄い紙みたいにたわんで震えた。叔母の声だ。京子おばさん、享年五十六。訓練中の事故で、私の中の案内役になった。
「おはよう。……じゃない、こんばんはか」
今日は新人向けの「手続き運用」夜間訓練。内閣ユニットに投げる差分断片の作り方を、現場職にも叩き込むやつだ。自治体も省もないから、誰でもいつか“投げる側”になる。
教室の机の上に、紙の回覧板が置かれていた。プラスチックの表紙に「第七訓練ブロック 安全講習/回覧」とあり、古いボールペンで名前欄が埋まっていく。いまどき紙。しかも回す。
京子おばさんが笑う。
「回覧板って、押印欄があるやつよね。ハンコ忘れてない?」
「忘れてないよ。シャチハタ」
私は胸ポケットから、なぜか支給品になっている朱肉不要のそれを出した。
前の席の子が、ガラケーを開いて出欠を取っている。画面はiモードっぽいメニューなのに、背面でサブスクの講義アーカイブが勝手に再生されて、音が漏れていた。
「その動画、音消して」
教官が言うと、子は慌てて端末を振る。UIが古すぎて、消音がどこかわからないらしい。
私はeペーパー端末で講義資料を開く。紙みたいに軽いのに、内部は暗号鍵の束だ。今日のテーマは「記憶補助の更新」。
……更新?
京子おばさんの声が、いつもより遅れて届いた。
「圭、ページめくり、逆」
「逆じゃない。今、勝手に戻った」
端末の右上に小さく通知。
《倫理検査実施中:補助人格の一部機能が制限されています》
「え」
私は思わず声を出した。
京子おばさんは、きょとんとした間で言う。
「検査? 私、聞いてないけど」
聞いてない。つまり、私の記憶補助は更新されてない。検査予定の通知が、私の側に届いていなかったか、叔母の側の“同意”が付与されていないか。どっちにしても、今夜は代理が差し込まれる。
教室の天井から、羽音。自律警備ドローンが、静かに通路を横切った。赤外線のスリットが一瞬私の顔を撫で、ドローンは「ピ」と小さく鳴って、回覧板の上で停止した。
回覧板の表紙に投影される文字。
《更新不備検知:訓練対象の補助人格ログが連鎖台帳と不整合》
教官が眉をひそめる。
「……誰か、記憶補助の更新落ち? 名乗って」
私は手を挙げた。恥ずかしいというより、寒い。
京子おばさんが、私の耳元で小さく言う。
「圭、落ち着いて。こういうときは、紙よ」
紙。机の隅に、写真の現像袋があった。訓練の教材らしく、「現場記録」とだけスタンプされている。中を覗くと、薄いプリントが数枚。夜間点検の写真、工具の並べ方、危険箇所の赤テープ。データじゃなく、わざわざ現像してある。
私はその一枚を引き抜いて、裏を見る。鉛筆で走り書き。
《更新は12/28 23:55予定。キー:KYO-56》
「これ、私の……」
教官が覗き込み、「古い手だな」と呟いた。古い、というのは平成的って意味じゃない。連鎖台帳が信用できないときの、最後の手。
ドローンが再び鳴る。
《代理人格の割当を開始》
私の端末の表示が一度白く飛び、文字が組み直された。
《代理:ナカムラ・セキ(享年79)/関係:未登録》
未登録。親族じゃない。知らない人。
「……圭さん?」
耳元で、知らない声がした。柔らかいけど、距離感がない。
「回覧板、次の人に回して。順番よ。こういうの、守らないと揉めるから」
京子おばさんの声が、さらに薄くなる。
「……圭、私、まだここに——」
途中で切れた。
教室の空気が少しだけ軽くなった。みんな、他人事のまま進めたい顔をしている。教官は「訓練だから」と言いながら、紙の回覧板を指で叩いた。
「よし。更新不備が出た場合の手順、今から実演。差分断片は紙でも受け付ける。内閣ユニットに投げるルートは——」
eペーパー端末の隅に、別の通知が滑り込む。
《第0x83C21内閣ユニット:総理権限付与(5分)》
私は息を飲んだ。
こんなタイミングで。
代理のナカムラ・セキが、妙に落ち着いた声で言う。
「圭さん、署名できるなら今よ。あなたが“正しい更新”を通せばいい」
私は現像袋の写真を見た。裏の鉛筆のキー。京子おばさんの癖のある字。
でも、今の私は、京子おばさんの同意を持っていない。更新不備のまま、私が“正しい”と決めてしまったら、叔母の人格を私の都合で上書きすることになる。
教室の隅で、紙の回覧板が次の人へ回った。パタ、という乾いた音。平成の音。
私は総理権限の画面を閉じた。
「署名、しません。訓練どおり、紙で申請します」
教官が一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに頷く。
「よし。じゃあ、回覧板の最後に添付。現像袋の写真も証跡として付けろ」
自律警備ドローンが、満足げに一回転して、天井へ戻っていった。
代理のナカムラ・セキが、ため息みたいに言う。
「あなた、真面目ね。五分あったのに」
私は現像袋の口を折り、回覧板にホチキスで留めた。カチン、と金属の音。
耳元の端末が、紙みたいに軽く震える。
《総理権限:失効》
私は笑ってしまった。苦くて、乾いた笑い。
「平成ってさ、ホチキスで国が回る時代だったっけ」
代理の声が、少し楽しそうに返した。
「回るわよ。回覧板が回るかぎりはね」
その言い方が妙に上手くて、余計に腹が立った。京子おばさんなら、たぶんもっと下手な冗談を言って、私に叱られていたはずなのに。