窓口番号の余白
──平成0x29A年 日時不明
【板:地方公務員の愚痴】
【スレ:監査多すぎて死にそうな奴集合】
投稿を下書き保存するか迷ってる。誰にも言えないから、ここに書く。
俺は市民課の窓口担当。四十二歳。転入届とか住民票とか、そういう書類を淡々と処理する仕事だ。
亡くなった兄貴――元行政書士で、享年三十八――のエージェントが、いつもイヤホンで助言してくれる。「その欄は旧様式だから、こっちのフォーマットで出力しろ」とか、「この印鑑は認印じゃなくて実印登録が必要」とか。兄貴の声がなかったら、とっくに辞めてた。
問題は、監査だ。
月に三回、必ずやってくる。党ドクトリンの自動検証プログラムが窓口の処理ログを全部吸い上げて、閣議決定との整合性を確認する。不備があると、即座に再提出命令が来る。
今朝も来た。受付番号F-0429の転出証明書について、「党ドクトリン第十二条第三項に基づく署名アルゴリズムの照合不一致」だって。
俺は窓口の引き出しから、分厚い電話帳を引っ張り出した。
平成時代の遺物みたいなやつ。紙の地図が挟まってる。市内全域の住所が手書きで補正されてて、システムに登録されてない旧番地がびっしり書き込まれてる。兄貴が生前に整備してくれた、窓口職員の命綱だ。
「F-0429……ああ、この人か」
イヤホンから兄貴の声がする。
「旧番地が残ってるエリアだな。党ドクトリンのデータベースには新番地しか登録されてないから、署名が通らない。いつものやつだ」
俺は自動翻訳イヤホンを耳にねじ込んで、党ドクトリンの合成音声アナウンスを聞く。
『第十二条第三項、住所表記の正規化規則に基づき、再提出を求めます。手続き完了まで、推定所要時間は四時間三十二分です』
四時間。
また四時間。
電話帳の隅に、兄貴の字でメモが残ってる。
「旧番地エリアは、党が存在を認識してない。だから署名が通らない。でも、住民は実際にそこに住んでる。矛盾を埋めるのが、窓口の仕事だ」
俺は再提出用のフォームを開く。紙の地図を見ながら、新番地に変換して入力する。
また監査が来る。また不備が出る。また四時間。
イヤホンから兄貴の声。
「お前、疲れてるな」
「……そりゃ疲れるよ」
「倫理検査、いつだっけ?」
「来週」
来週、兄貴のエージェントは一時的に停止される。代わりに代理エージェントが来る。誰の声かもわからない、マニュアル通りの助言しかしない機械音声だ。
「その間、どうすんの?」
兄貴が訊く。
「……電話帳と地図を見ながら、やるしかない」
窓口の奥から、合成音声アナウンスが流れる。
『次の方、どうぞ』
俺は下書き保存ボタンを押す。
投稿はしない。
窓口番号の札を裏返して、次の市民を呼ぶ。
兄貴の声が、小さく言う。
「電話帳、大事にしろよ」
――ああ、わかってる。
これがなくなったら、俺は何も処理できなくなる。
党ドクトリンは、旧番地の存在を認めない。
でも、住民は確かにそこにいる。
矛盾を埋めるのが、窓口の仕事だ。
兄貴がそう言った。
だから俺は、電話帳と地図を握りしめて、今日も窓口に座る。
【投稿しますか?】
[はい][いいえ]
――いいえ、を選ぶ。
下書き保存フォルダに、また一件増えた。