早朝七時十分のローカルルール

──平成0x29A年03月28日 07:10

 通勤ラッシュ前の第4行政ブロック駅は、まだ眠気を含んだ空気に包まれている。私は改札の前で足を止めた。旧世紀のデザインを模したバイオメトリック改札機が、私の静脈パターンを読み取ろうと赤い光を点滅させる。

「恭一、またエラーが出るわよ。指の角度、もう少し右」

 脳内で叔母さんの声が響く。相沢ミサコ、享年五十八。かつてこのブロックの市民課で「鬼の係長」と呼ばれた彼女は、私のエージェントとして今も口うるさい。
 言われた通りに指を傾けたが、改札は無情なブザー音を鳴らした。「認証できません」という合成音声。

「あーあ。だから言ったじゃない、昨日のうちに生体データの更新申請しとけって」
「申請しても承認が下りるのに三週間かかるんだよ、ミサコさん」

 私はため息をつきながら、改札の脇にある有人窓口へ向かう。顔馴染みの駅員が、眠そうな目をこすりながら手動でゲートを開けてくれた。システム上の認証は失敗しているが、物理的な顔パスという「非公式ルール」がここでは優先される。党ドクトリンの厳格なアルゴリズムも、現場の運用までは監視しきれていないのだ。

 職場である市民課のカウンターに着いたのは、午前七時十分ちょうどだった。
 フロアでは円盤型のロボ清掃員が、ウィーンという低い駆動音を立てて床を這い回っている。まだ窓口業務の開始前だが、すでに一人、整理券を持って待っている老人がいた。

「早いわねえ。あの人、三丁目の鈴木さんじゃない?」
「たぶんそうだね」

 私は端末を起動し、業務モードに入る。鈴木さんがカウンターに歩み寄ってきた。

「すまんね、朝早くから。転入の手続きなんだが、どうもシステムが弾くんだよ」

 鈴木さんが差し出したのは、最新の電子申請タブレットではなく、ボロボロになった「紙の回覧板」だった。そこには、手書きのサインと押印がずらりと並んでいる。

「システム上だと、私の新しい住所は『存在しない区画』になってるらしくてな」

 私は端末のキーを叩き、行政マップを呼び出す。案の定、鈴木さんが引っ越したとされる一角は、データ上では空白地帯だ。三十年前の区画整理データが破損し、党の承認サーバーが更新を拒絶し続けているエリア。

「恭一、マニュアル三章の四項じゃ『却下』一択よ。でも、裏マニュアルなら……」
「わかってる」

 私はカウンターの下から、分厚いファイルを引っ張り出した。広げたのは、黄ばんで折り目だらけになった「紙の地図」だ。手書きで修正線が無数に入っている。
 デジタルデータよりも、誰かが足で稼いで書き込んだこの紙の方が、この世界では「真実」として扱われる。

「ここですね、鈴木さん」
「ああ、そこだ。回覧板もちゃんと回ってきたから、住んでるのは間違いない」

 回覧板のハンコ。それが居住実態の証明になる。ブロックチェーンによる暗号署名よりも、隣人の三文判の方が信用されるのだ。

「確認しました。特例措置コードで通します」

 私は端末に、本来の住所コードではなく、システムが許容するダミーのコードを入力した。備考欄に『紙地図参照:回覧板確認済み』と打ち込む。これが現場の知恵、非公式な解決策だ。

「あら、いいの? あとで監査が入ったら面倒よ」
「監査プログラムだって、このバグには手出しできないさ。現実がこうなんだから」

 処理完了の音が鳴り、鈴木さんは安堵の表情で帰っていった。ロボ清掃員が私の足元にぶつかり、方向転換していく。
 システムと現実の乖離を、私たちはこうして手作業で縫い合わせている。それが正しいことなのかは分からないが、少なくとも今日は一人、路頭に迷わずに済んだ。
 私は冷めかけた缶コーヒーを開け、次の「非公式」な業務に備えた。