香りのチケット、名前の席

──平成0x29A年10月15日 23:10

平成0x29A年10月15日、23:10。

第14娯楽ブロックの古いミニシアターは、ロビーだけ妙に新しい。壁のポスターは紙で、上映案内はARで浮く。受付横には「本日の匂い演出:雨上がりのアスファルト(再現)」と手書きの札。

俺は客席係のアルバイトだ。胸の名札は印字が薄い。朝、プリンタが機嫌悪くて、折込チラシの裏に貼り付けた。チラシには「今月の特売:充電式NiMH 単三8本パック」と、隣にサブスク映画のQRが並んでいる。平成っぽいごちゃ混ぜに、誰も突っ込まない。

耳の奥で、父さんの声がする。エージェント。死因は心筋梗塞、口癖は「段取りが命だ」。
『開場五分前に匂いデバイスの残量、見たか』
「見たよ。タンク、半分」
『半分は“足りない”と同義だ』

匂い再現デバイスは、ロビーの天井に付いた小さな箱だ。カートリッジ式で、今日は「雨」「タバコ」「ポップコーン」の三種が刺さっている。電源は壁の古いコンセントに、NiMHで動く非常用パックを噛ませている。停電が怖いからだ。

客が流れ込んできた。
「すみませーん、予約名、ミナトで」
若い男がスマホを差し出す。画面は昔のiモードみたいなメニューに、最新の暗号化チケットがぶら下がっている。

俺は端末で照合する。ピ、と短い音。
表示は赤。
【権限不一致:当該IDは“内閣ユニット投票監査”の臨時権限を保持】

「え?」
『面倒なの来たな』と父さん。

男は困ったように笑う。
「それ、さっき…投票したからですかね。ブロックチェーン投票。上映前に“文化保全税の配分”ってやつ」

確かに、今夜の来場者にはロビーで投票を促している。端末の横に、投票用の小さなゲート。入場者が一票を投げると、チェーンに刻まれて、どこかの“会議”の差分断片になる、と説明されている。

俺の端末は続けて表示する。
【席の再割当を要求しますか? 承認には監査権限署名が必要】

「監査権限って…俺、そんなの持ってないです」
男の顔色が変わった。

背後で、ロビーの匂いが一段濃くなる。雨上がりのアスファルト。懐かしいのに、胸がざわつく。匂いって、記憶の裏口だ。

『端末が“身分”を盛ってる。誤照合だ。だが今は、機械のほうが偉い』
父さんが苦々しく言う。

俺は列の後ろを見た。客は増えて、開演は迫る。ここで揉めると全員が遅れる。

「一回、投票ゲートに通してください」
俺は男に言った。
「え、もう投票しましたよ」
「もう一回。たぶん…“監査としてのあなた”が必要」

男は半信半疑でゲートに指を当てる。薄い光が走り、チェーンに何かが刻まれる。
端末が鳴った。
ピ、ではなく、カチッと古いリレーみたいな音。

【監査署名:受領】
【席の再割当:承認】

俺は息を呑む。承認のところに、小さくドクトリン署名の痕跡が見える。誰も見えない“党”の形式だけが、まだ生きているみたいだった。

「通りました」
「え、俺、今…何したんですか」
男は笑うしかない顔で、チケットを握りしめる。

『お前が今夜守るのは映画じゃない。流れだ』
父さん。

俺は客席へ案内しながら、壁の折込チラシを指で押さえた。名札が剥がれそうだったからだ。チラシの特売文字が、汗で少し滲む。

上映が始まり、ロビーは静かになる。匂いデバイスの排気が、雨の記憶を薄く撒き続ける。

俺は受付に戻って、非常用NiMHパックの残量ランプを見る。緑が一つ、消えかけている。

そのとき、さっきの男がトイレ帰りに小声で言った。
「さっきの権限表示、あれ…俺じゃなくて、ほんとはあなたのだったりしません?」

俺は笑って誤魔化しかけて、やめた。

「たぶん、そう」
俺は折込チラシの裏の名札を指で押さえたまま、告白する。
「今日の昼、投票ゲートのテストで、俺、ちょっとだけ“監査”のフリした。客が並ぶのが嫌で」

男は目を丸くして、それから肩をすくめた。
「じゃあ、俺がさっき二回目に投票したの、あなたの尻拭いですね」

「うん」

遠くのスクリーンから、昭和でも令和でもない平成の笑い声が漏れてくる。雨の匂いが、少しだけ甘く感じた。

『段取りが命だ』
父さんが、珍しく優しい声で言った。
『でも、たまには謝れ。ちゃんと』

俺は頷いた。上映が終わったら、投票のチェーンに残った二票分の重さを、俺はきっと、誰にも見えないところで数えるのだろう。