ネガの匂いと、忘れられた番号

──平成0x29A年11月19日 22:30

「お客さま、お待たせいたしました」

俺は緑色のプラスチック製の現像袋を受け取った。袋の表面には手書きで「11/17受付 35mm 24枚撮り」と書かれている。中には光沢紙にプリントされた写真が入っているはずだ。

店内にはかすかに薬品の匂いが漂っている。ここは第6文化ブロックにある「フォトスタジオ・ミライ」。平成エミュの影響で、デジタル写真が主流なのに、なぜかフィルムカメラと現像サービスが細々と続いている。俺の仕事は、この店の暗室機材を保守することだ。

「三島さん、また自動現像機の温調が狂ってますよ」

店主の声に振り向くと、彼女は困った顔で制御パネルを指差していた。液温が規定より0.3度低い。微細な故障だが、放置すれば写真の発色に影響する。

『兄貴、温度センサーの校正データ、確認してみて』

耳の奥で弟の声が響く。三島拓海、享年22。工場の事故で亡くなった。生前は計測機器のエンジニアだった。今は俺の人格エージェントとして、こういう細かい不具合の診断を手伝ってくれる。

俺は脳波UIを起動する。視界の端にホログラムのメニューが浮かび、思考だけで項目を選択していく。センサーログを呼び出すと、確かに昨夜から微妙なドリフトが始まっている。

「部品交換が必要ですね。でも在庫が……」

俺は店の奥にある部品棚を探った。古い段ボール箱の中に、予備の温度センサーが一つだけ残っていた。パッケージには製造年月日が印字されている。平成26年。実際には西暦2014年だ。40年以上前の部品だが、こういう旧式機材の保守では珍しくない。

センサーを交換し、校正を済ませると、液温は正常値に戻った。

『さすが兄貴。俺が生きてたころと同じ手際だ』

拓海の声には、いつもの明るさがある。倫理検査までは、あと二週間。それまでは、こうして一緒に仕事ができる。

ふと、店主が電話帳を繰っているのに気づいた。分厚い紙の束。表紙には「第6文化ブロック事業者名簿 平成0x29A年版」とある。

「三島さん、近傍通信タグの読み取り機、また壊れちゃって。部品屋さんに電話しなきゃ」

彼女は電話帳のページを指でめくりながら、古い黒電話のダイヤルを回し始めた。ジリジリという音が店内に響く。一方で、彼女の手首には最新のスマートバンドが光っている。通話もメッセージも、そっちでできるはずなのに。

平成エミュ。俺たちはいつの間にか、こんな奇妙な生活様式の中に溶け込んでいる。

作業を終えて店を出ると、夜の街には薄く霧が立ち込めていた。時刻は22時半を過ぎている。ポケットの中で、さっき受け取った現像袋がかさりと音を立てた。

家に帰ったら、中の写真を見てみよう。誰が何を撮ったのか、俺は知らない。でも、この袋の手触りと、暗室の匂いは、確かに今日ここにあった。

それだけで、十分だと思った。