ポイントカードは、カセットテープの残響
──平成0x29A年04月24日 19:50
「あの、すみません」
声かけられたのは、いつものことだ。私は第7地区、地域包括支援センターの介護支援専門員、三枝(さえぐさ)だ。
「はい、なんでしょう?」
目の前にいたのは、小柄な高齢の女性。顔を上げると、隣に立つ、見るからに疲れた表情の若い男性が、彼女の肩に手を添えていた。
「この方は、山田さん。新規の相談でいらしたんですが…」
男性がそう言いかけた時、女性の顔がぱっと明るくなった。
「あら、三枝さん! 久しぶり! 元気だった?」
「え、えっと…」
私は戸惑った。初対面の利用者さんだ。しかし、彼女の言葉遣いには、確かな親しみがこもっている。いや、これは…
「もしかして、山田さん、エージェントの調整中ですか?」
女性は、きょとんとした顔で私を見た後、男性の方へ顔を向けた。男性は、額の汗を拭いながら、かすかに頷いた。
「すみません、三枝さん。妻が、定期的な法定倫理検査で、代理エージェントの運用ができない期間なんです。それで、私、妻の『デジタルツイン』を一時的に運用してまして。彼女、昔、このセンターで相談員をしてましてね。それで、つい、昔の調子で…」
「ああ、そういうことでしたか!」
ようやく納得がいった。彼女は、このセンターで長年相談員を務めた、山田静子さん。数年前に亡くなられたが、その人格データが、彼女の夫の耳内端末に移植され、エージェントとして運用されている。しかし、今は、そのエージェントに代わって、夫自身が、妻の記憶や人格を呼び起こし、一時的に「妻」として振る舞っているのだ。いわゆる「デジタルツイン」の、さらに限定的な運用というわけだ。
「失礼いたしました、山田さん。あの、ご主人様?」
私は、夫の方に視線を移した。彼は、少し気まずそうに笑った。
「ええ、まあ。妻が、昔お世話になった方と話すのが、一番落ち着くみたいで。すみません、私、普段は第19地区の機械部品加工業で働いてまして、こういうのは専門外でして…」
「いえいえ、こちらこそ、ご説明不足で。それで、山田さん、どのようなご相談でしょうか?」
私は、彼女(夫)に、改めて問いかけた。彼女は、持っていた紙のポイントカードを、懐かしそうに撫でながら、話し始めた。
「あのね、三枝さん。最近、このカード、全然使わなくなっちゃって。昔は、これで、色々なサービスが受けられたのに。今の『バーチャル役所』って、便利だけど、なんだか、温かみがなくてね。」
彼女は、カードのスタンプが一つも押されていない欄を指差した。
「ここに、昔は、色々な思い出が詰まってたんだけどね。」
夫は、彼女の隣で、静かに頷いている。その表情は、妻の過去を、まるで自分のことのように、大切にしているようだった。
「そうですね。昔のサービスとは、形が変わりましたが、また、何か、お手伝いできることがあるかもしれません。まず、こちらの申請書にご記入いただけますか?」
私は、申請書を差し出した。彼女は、夫に手伝ってもらいながら、ゆっくりと、しかし丁寧に、記入を始めた。その姿は、かつて、このセンターで多くの人の相談に乗り、温かく支えていた、あの山田静子さんの面影を、確かに宿していた。
カセットテープの、あの頃の音楽のように。一度聴かなくなっても、ふとした瞬間に、鮮やかに蘇る記憶。
「ありがとうございます。山田さん。後日、改めて、ご主人様と、ご相談の日程を調整させてください。」
彼女は、感謝するように、私に微笑みかけた。その笑顔は、夫の顔に、そして、私自身の心にも、かすかな温かさを灯した。
夫が、彼女の手を優しく握りしめる。その静かな仕草に、二人の間の、確かな絆を見た気がした。