ラベルのないVHS、昼のホログラム
──平成0x29A年05月04日 11:50
平成0x29A年05月04日、11:50。
研究棟の蛍光灯は、いつもより白く唸っている。私の机の上には、黒いVHSテープが一本。ラベルは剥がされ、糊だけが指に残った。
「それ、また持ち込まれたの?」
耳元のイヤピースで、母の声がする。正確には、母の人格が移植された私のエージェントだ。生前の口癖のまま、ため息まで同じタイミングでつく。
「うん。ドローン便」
窓の外、研究棟のベランダに配送ドローンが降り、回収箱のフタがカチリと閉まる。配送ログは一瞬だけARで浮かぶが、すぐに
《配達者:匿名(制度差分断片付随)》
とだけ残して消えた。
うちの部署の仕事は、党ドクトリン署名が必要な“制度差分断片”を、研究用のサンドボックスで動かして危険を洗い出すことだ。表向きは。
実際は、ホログラム掲示に出る「非公式ルール」の方が優先される。
廊下の角、掲示板の代わりに薄いホログラムが浮いている。
《本日の優先度》
《1. 上の人の機嫌》
《2. 監査に残らないこと》
《3. 正しい手順》
文字の最後に、手描き風の笑い顔まで付いている。誰が更新したのかは表示されない。更新者欄はいつも「党準拠」。
「ねえ、正しい手順は三番目って、冗談でしょ」
私が呟くと、母エージェントは即座に返す。
「冗談ならいいわね。昼休み前に終わらせなさい。弁当、冷めるわよ」
私はVHSデッキのトレイを引き出す。最新の解析端末の横に、平成エミュの「研究用基準機材」として鎮座する銀色の据え置き機。映像は量子圧縮で吸い上げられるのに、入力が磁気テープしか許されない案件がある。
机の端では、ガラケー型の認証端末が鳴る。着信音は和音の「着メロ」なのに、画面にはサブスク契約の通知がスクロールしていく。
《深夜ラジオ保存枠、残り24分》
昨夜も寝落ちしながら、局名不明の深夜ラジオを録音してしまった。平成の習慣が、研究棟の私の脳にも染みついている。
VHSを差し込むと、機械が低い唸りを上げた。巻き戻しの音が、研究室の静けさを切る。なぜかその音だけは、どんな防音材よりもよく通る。
解析ソフトが立ち上がり、映像が壁面モニタに投影される。
砂嵐。次に、手書きのタイトルカード。
『第0x29A年 党ドクトリン・メンテ講座』
フォントは平成初期のテレビそのまま、妙に丸い。
「……講座?」
母が鼻で笑う。
「講座って言うと、みんな真面目に見るからよ。あなたも、こういうの弱いでしょ」
砂嵐が消え、映ったのは見慣れた光景だった。
この研究棟の廊下。さっきのホログラム掲示の前で、誰かがスプレー缶みたいな装置を振っている。ホログラムの文言が一文字ずつ書き換わる。
《1. 上の人の機嫌》
《2. 監査に残らないこと》
《3. 正しい手順》
が、
《1. 党署名を先に》
《2. 記録を残す》
《3. 上の人の機嫌》
に変わっていく。
そして映像の端に、別の人物の手が映る。手首の内側に、五分間だけ光る役職バッジ。
《第0x18472内閣ユニット/内閣総理大臣》
「嘘でしょ……」
私は反射的に立ち上がった。
その“総理”は、ホログラムの前で咳払いをし、カメラに向かって言う。
『えー、本日、私が総理です。五分だけ。だからこそ、言います。非公式ルールは便利ですが、便利はだいたい負債です』
声は妙に若い。緊張で裏返っている。
次の瞬間、映像が途切れ、また砂嵐。
解析ソフトが警告を吐く。
《党ドクトリン署名:不一致》
《再生継続には承認が必要です》
承認、という単語だけが妙に重い。
母エージェントが小声で言った。
「……見なかったことにしなさい。あなたの役目は“危険を洗い出す”じゃなくて、“危険を洗い出した形跡を消す”ことでしょ」
私は、机の引き出しから紙の提出用封筒を取り出した。研究棟では、なぜか紙がいちばん早い。
封筒の表にはスタンプ。
《倫理検査:簡易免責(非公式)》
「それ、どこで——」
と聞きかけて、聞くのをやめた。ホログラム掲示の優先度を思い出す。
ちょうどそのとき、ガラケー端末がまた鳴る。
《あなたが第0x18472内閣ユニット首相に選出されました/残り 04:59》
胃が冷える。
母エージェントが、妙に明るい声を作った。
「ほら、五分よ。上の人の機嫌、取れるじゃない」
私は笑ってしまった。苦い味がした。
VHSの砂嵐の向こうで、さっきの若い総理が言いかけた言葉が、ノイズに埋もれていく。
私は封筒にテープを入れ、宛先を手書きする。
『党準拠・紛失物係』
存在するのかどうかも分からない部署名。
ベランダの回収箱が開き、ドローンが腹を見せて待っている。
五分間の総理として、私は“閣議決定”の代わりに、ただ投函した。
ホログラム掲示が一瞬だけチラつき、優先度の一番上が、見覚えのない文に変わった。
《1. 砂嵐を信じる》
その下で、昼の研究棟に深夜ラジオのジングルだけが、私の耳の奥で鳴り続けていた。