未明のニッケル、揺れる利息
──平成0x29A年07月20日 05:10
町内会掲示板のガラス戸に、明け方の青白い光が反射している。そこに映る私の顔は、実際の年齢よりもひどく老けて見えた。
手元の端末が「バッテリー残量低下」を告げる無機質なビープ音を鳴らす。私は舌打ちをして、裏蓋をスライドさせた。中から転がり出てきたのは、ずしりと重い単三型の充電式NiMH(ニッケル水素)電池だ。コンビニに行けば軽量なリチウムパックも売っているが、私の商売道具であるこの旧式PDAは、平成中期の仕様書に準拠したこの重たい円筒しか受け付けない。
「達也、手際が悪いぞ。相場が動いちまう」
脳内の骨伝導インプラントから、聞き慣れた声が響く。加納だ。私の元ビジネスパートナーであり、五年前に脳卒中で急死した男のエージェント。
「今は朝の五時十分だ、加納。相場なんて動いてないし、そもそもそんなものはもう存在しない」
私は予備の電池を押し込み、再起動シークエンスを待った。画面に「FOMA」のロゴが一瞬だけ表示され、すぐにブロックチェーンの同期画面に切り替わる。
「……そうか。そうだったな。悪い、ちょっとメモリが飛んだ」
加納の声にノイズが混じる。最近、彼の認識にズレが生じている。人格のゆらぎだ。死者の人格データも、再利用を繰り返せば劣化する。まるでメモリー効果を起こした古い充電池のように。
砂利を踏む音がして、約束の相手が現れた。フードを目深にかぶった若い男だ。手には3Dプリント特有の積層痕が目立つ、武骨なプラスチックのケースを抱えている。
「葛城さん、ですよね」
「そうだ。ブツは?」
男は無言でケースを掲示板の前のベンチに置いた。私はPDAの赤外線ポートを向ける。ケースの側面には、厳重な量子乱数ロックのユニットが埋め込まれていた。中身は恐らく、旧政府時代の公債データか、あるいは希少な遺伝子パターンのバックアップだろう。裏金融の世界では、現金よりもよほど信用の高い担保だ。
「ロック解除を。こっちで評価額を算出する」
私が促すと、男は震える指でユニットに生体認証を通した。カチリ、と物理的な解錠音が響く。
「加納、スキャンしろ。査定だ」
私は脳内で相棒に指示を出した。本来なら、元銀行員の加納のアルゴリズムが一瞬で適正な掛目をはじき出すはずだ。
しかし、返答がない。
「加納?」
「……おい、達也。雪だ」
加納が突然、頓狂な声を上げた。
「は?」
「雪が降ってる。すげえ大雪だ。これじゃあ電車が止まるぞ。今日の決済、間に合わないかもしれん」
私は思わず空を見上げた。七月の湿った朝の空気に、セミの鳴き声が混じり始めている。雪など降っているはずがない。
「何言ってるんだ。今は夏だ」
「いや、寒い。すごく寒いんだ、達也。手がかじかんで、キーが叩けない……」
加納の声が震えている。それは彼が死んだ夜、病院のベッドで最期に呟いた言葉と酷似していた。背筋に冷たいものが走る。エージェントが死の瞬間の記憶をループし始めている。
目の前の男が怪訝そうに私を見ている。
「あの、どうしました? 早くしてくれないと困るんです」
私は深呼吸をし、PDAの画面を指で強く叩いた。加納の同期レベルを強制的に下げ、セーフモードで演算リソースだけを引き出す。
「……すまん、少し回線が混線した」
私は男にそう言い訳し、加納の人格モジュールを無視して、純粋な計算機として彼を使った。画面に「評価額:240万党円」の文字が弾き出される。
「200万でどうだ。利息はトイチ。返済期限は十日後の満月まで」
「……足元見ますね。でも、背に腹は代えられない」
男は承諾し、私は契約の署名トークンを発行した。量子乱数ロックが再び作動し、担保の所有権が一時的に私のアドレスへ移転する。
男が去った後、私はベンチに座り込んだ。PDAはずしりと重く、背面は高負荷処理の熱で生温かくなっていた。
「……あれ、達也? 俺、寝てたか?」
加納の声が戻った。いつもの、少し軽薄で頼りがいのある相棒の声だ。
「ああ、少しな。仕事は終わったぞ」
「そうか。やれやれ、最近どうも疲れが抜けなくてな。今度、うまい鰻でも食いに行こうぜ」
私は何も言えなかった。彼が鰻を食うことは二度とないし、彼自身、自分が死んでいることを忘れる頻度が増えている。
私はPDAからニッケル水素電池を一本抜き取り、掌で転がした。金属の被覆越しに伝わる熱は、まるで生き物の体温のようだ。しかし、中身はただの化学物質の反応に過ぎない。
掲示板には「ラジオ体操 朝6:30から」という色褪せたポスターが貼られている。誰かがマジックで書き足した「雨天決行」の文字が、滲んで読めなくなっていた。
私は電池を握りしめ、まだ明けない空に向かって、小さく息を吐いた。手の中の熱が冷めるまで、もう少しだけここにいようと思った。