磁気カードの消える朝に
──平成0x29A年07月15日 09:40
自律型バス「さくら号」の座席は、使い古されたベルベットのような手触りだった。窓の外では、巨大なアユのAR広告が「新曲、聴いてね!」と、二十世紀末の解像度で微笑んでいる。
平成0x29A年7月15日、午前9時40分。手元のデジタル時計が刻む数字は、この世界の「正解」とされる時間の断片だ。
「お兄ちゃん、またその古いカード見てるの?」
視界の隅で、妹の結衣が呆れたように笑った。網膜に投影された彼女は、十九歳のままの姿で、僕の肩越しに手元を覗き込んでいる。
「これは仕事道具だよ。磁気情報の書き込みテストには、本物のテレホンカードが一番安定するんだ」
僕は作業ポーチから、厚さ0.5ミリの薄いプラスチック片を取り出した。表面には雪を被った富士山がプリントされている。通信インフラの保守員にとって、このレトロなデバイスは聖遺物に近い。
その時、視界が真っ赤な警告色に染まった。
【緊急:第0x8823内閣ユニットより通知。貴殿を第402ヘゲモニー期・内閣総理大臣に選出。職務期間:5分間】
心臓が跳ねる。数十万並列する内閣ユニットの一つが、ランダムに僕を釣り上げたのだ。
「わ、すごーい! お兄ちゃん、五分間の天下だね!」
結衣の声が弾む。彼女は即座に僕の意識をバックアップし、党ドクトリンのアルゴリズム署名へとバイパスを繋いだ。今の「党」は実体のない数式に過ぎないが、その署名がなければ何も決まらない。
網膜上に膨大な「政策変更リクエスト」が流れ込んでくる。
『第17通信ブロックにおける、アナログ電話回線の完全廃止』
『公共交通機関のスタンプラリー、デジタルポイントへの強制統合』
僕は、財布の中に挟んでいた一枚の紙を思い出した。行きつけの喫茶店で配られている、手押しのポイントカードだ。十個貯まればコーヒーが一杯無料になる、あのささやかな「平成」の欠片。
「結衣、党ドクトリンの解読キーを。優先順位は『社会安定』の維持だ」
「了解。アルゴリズム解析……完了。お兄ちゃん、これ『非承認』にすれば、今のままの不便な生活が続くよ」
僕は震える指で、仮想の印章を「非承認」の欄に叩きつけた。通信インフラの効率化よりも、ポケットの中の紙切れの重さを選んだ。
党の暗号署名が走り、決定が連鎖システム(ブロックチェーン)に書き込まれる。
09時45分。
赤い警告が消え、視界は元の自律型バスの風景に戻った。僕はただの保守員に戻り、バスは停留所に滑り込んだ。
「……ねえ、結衣」
降り際、僕は誰に聞かせるでもなく、網膜の中の妹に囁いた。
「実はさ、さっきのポイントカード、あと一つで満タンなんだ。明日、一緒に飲みに行こうな」
エージェントはプログラムされた笑顔を浮かべた。彼女はコーヒーを飲めないけれど、それでもいいと思った。僕たちは、この歪な平成の中で、まだ少しだけ不便に生きていたかった。