半券が照らす0.001%の未来

──平成0x29A年02月04日 13:40

滑るように加速するリニアの車内で、僕はハンドヘルド端末を操作していた。窓の外を流れる景色は灰色一色。地下トンネルだ。車内に浮かぶ公共ARサインだけが、色鮮やかに行き先と乗り換え情報を明滅させている。

「お客様、申し訳ありません。もう一度……」

僕の目の前で、初老の男性が困惑した顔で磁気チケットを握りしめている。簡易改札機が、何度やってもけたたましいエラー音を立てるのだ。

『陸、署名のハッシュ値が0.001%ズレてる』

鼓膜に直接響く、姉さんの声。僕のエージェント、新崎海。二年前に探査ドローンの事故で死んだ、元エンジニア。

『またドクトリンの丸め誤差。このチケット、古い発券機で買ったんじゃない?』
「みたいだね」

僕は小さく頷き、端末のオーバーライド画面をタップする。だが、赤く点滅する「権限不足」の文字が僕の操作を拒んだ。カーボンクレジット台帳への書き込みが不整合を起こしているらしい。この乗客の移動は、環境負荷として正しく記録されない限り許可されない。

「どうにかならないかね。品川で大事な約束が……」
男性の背後には、乗り換えを待つ乗客たちが列を作り始めている。

『中央のパッチが間に合ってない。内閣ユニット同士の合意形成が渋滞してるから』
姉さんの声はいつも冷静だ。まるで、世界の歪みなんて計算式の変数の一つだと言わんばかりに。

どうしようもない。次の駅で係員に引き継ぐしかないか。僕がそう諦めかけた瞬間、視界の隅に小さなポップアップ通知が現れた。

【第0x8C3A9内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間】

心臓が跳ねる。またか。このランダムな茶番にはうんざりしているが、今日だけは違った。

『陸、今よ!』
姉さんの声が鋭く響く。『この権限で、署名不整合を許容する一時的な例外規定に署名して!閣議リクエスト、今送った!』

端末に、見慣れない承認画面がオーバーレイ表示される。膨大な差分断片と、暗号化された文字列。僕が承認すれば、この小さなグリッチは、ほんの数分だけ、この車両の中だけで「正当な運用」になる。

一瞬、ためらった。党ドクトリンへの反逆。でも、目の前にいるのは、ただ目的地へ急ぎたいだけの一人の人間だ。

僕は、深く息を吸い、承認ボタンに指を置いた。

緑色の承認ランプが灯り、簡易改札機が軽やかな電子音を立てた。男性は「おお、助かったよ」と軽く頭を下げ、足早に去っていく。後続の乗客たちも、次々と改札を抜けていった。

やがて、5分間の任期終了を告げる通知が静かに消えた。僕はまた、ただの車掌に戻った。

ふと、制服のポケットに手を入れる。指先に触れたのは、くたびれた紙の感触。子どもの頃、姉さんと二人で乗った旧式のローカル線のチケットの半券。そして、その裏に重ねてある、ざらついた印画紙の小さなフィルム写真。

写真の中の姉さんは、窓から差し込む光に目を細めて、僕に笑いかけていた。

長いトンネルを抜けたリニアの車内に、午後の陽光が柔らかく差し込む。世界の歪みは変わらない。でも、こうして自分の手で、ほんの僅かでも風穴を開けることはできるのかもしれない。

半券と写真を握りしめ、僕は次の停車駅を告げるアナウンスを始めた。