年賀状の下書き、午前二時半の点検台にて

──平成0x29A年11月30日 02:30

ブラウン管テレビがまだ点いていた。

第11インフラブロック、地下三層の中継基盤室。蛍光灯は二本に一本しか生きていなくて、残りはジジジと音だけ立てている。壁掛けのブラウン管は本来、基盤室の稼働ステータスを映すモニターだったはずだが、いまは砂嵐と、時々思い出したようにコンビニの防犯カメラ映像を垂れ流している。誰も直さない。

「——陽一、左腕のパッチ、色変わってるよ」

スマートグラスの左隅に、祖母の声がテキストと同時に届く。反射的に腕を見ると、ナノ医療パッチの縁がオレンジに滲んでいた。血中の疲労マーカーが閾値を超えたらしい。指で二度叩くと、パッチがじわりと温かくなり、微細な投薬が始まる。

「ありがとう、ばあちゃん」

祖母——梶原タキ。享年八十一。三年前に眠るように逝った。生前と変わらず、おれの体調にだけは目ざとい。スマートグラスの右端には、彼女のエージェント認証バッジが小さく光っている。

おれの仕事は署名アルゴリズムの中継基盤を物理的に保守することだ。週に二度、深夜にここへ降りてきて、冷却系の目視確認と接続端子のクリーニングをやる。平成何年だか知らないが、こういう力仕事はまだ人間がやっている。

端子を一本ずつ外し、接点復活剤を塗る。第四ラックの三段目を開けたとき、指が止まった。

基盤のハウジングに、誰かがマーカーで書き込んでいる。

『0xFE03 seed=公開済 :) もう鍵じゃない』

スマートグラスが自動で文字を読み取り、ばあちゃんが息を呑む気配がした。

「……これ、ドクトリンの署名シードじゃないの」

「そう」

知っていた。半ば公然の秘密だ。党のアルゴリズムが使う暗号シードはとっくに解析されていて、こうやって現場の保守員が落書きするくらいには広まっている。ただ、物理基盤にマーカーで書かれると、点検記録に残さないわけにはいかない。報告すれば上位ユニットが動き、基盤の交換が入り、おれの深夜手当が数週間分消える。

スマートグラスに点検報告のフォームを呼び出す。UIがiモード風の狭い画面で、親指でスクロールするたびにAR広告が右上に湧く。「年賀はがき、早期割引受付中!」。十一月末日、もうそんな時期か。

「ばあちゃん、年賀状って誰に出すもんだったっけ」

「お世話になった人。あと、普段会えない人」

ばあちゃんの声は少しだけ柔らかくなった。

「陽一、正直に書きなさい。落書きのこと」

「書いたら面倒なことになる」

「面倒でも、嘘の記録を残す方がよっぽど気持ち悪いでしょう」

生前もそうだった。小さな嘘を絶対に許さない人だった。おれは報告欄に『ハウジング外面に署名シード情報の露出を確認。写真添付』と打ち込んだ。送信ボタンを押す。AR広告の年賀はがきが、報告完了のポップアップの上に重なって揺れた。

静かになった。ブラウン管だけが、ずっとコンビニの無人の棚を映している。

「ばあちゃん」

「なに」

「——年賀状、出してもいい? ばあちゃん宛に」

長い沈黙があった。スマートグラスの認証バッジが一度だけ明滅する。

「届くの?」

「届くかわかんない。でも、書きたい」

「……じゃあ、ちゃんと手書きにしなさいよ」

ナノ医療パッチがまた少しだけ温かくなった。投薬のタイミングではないはずだった。