ノイズの向こう、妹の告白
──平成0x29A年01月27日 17:00
平成0x29A年01月27日17時。俺の部屋は、普段とは違う静けさに包まれていた。
食事の準備をしていた手が止まる。シンクの向こう、冷蔵庫のドアにマグネットで留められた物理的な折込チラシが、色鮮やかに今日の特売品を主張している。
通信インフラ保守員の俺にとって、この静けさは非常事態を意味する。第7居住ブロック全域で、大規模な通信障害が発生したのだ。
「またこれ? 先週も電力ブロックで同じことあったじゃん」
俺の脳内に、妹の里奈の声が響く。享年22、不慮の事故で亡くなった彼女の人格が移植されたエージェントだ。画面が真っ黒なスマホを指差しながら、彼女は呆れたように言う。
「違う。今回はもっと根が深い。プロトコルレベルの不一致だ」
俺は端末をテーブルに置き、職場からの緊急テキストメッセージを確認する。旧式の通信方式がバックアップで辛うじて動いているおかげだ。
職場に着くと、すでに多くの同僚が頭を抱えていた。
「藤井、来たか。原因は判明してる。地域情報伝達プロトコルの暗号化手続きが、中央電力供給ブロックのそれと微小にずれている」
上司の声に、皆がため息をつく。それは「党」ドクトリンアルゴリズムの末期症状の一つだ。公式には厳重な秘匿情報だが、半ば公然と解読情報が出回っている、あの不具合。
里奈がディスプレイに顔を近づけてくる。「ほら、前に話してたパターンのやつじゃん。あのさ、昔のネットワーク構造って、もっとシンプルだったよね? そこに新しいレイヤーを無理やり重ねてるから、こういうバグが出るんだよ」
彼女は俺のメモリーバンクに保存されている、俺が子供の頃に作ったおもちゃの回路図を引っ張り出す。それは今の複雑なシステムとは似ても似つかない、シンプルな電気回路だった。無理やり平成をエミュレートしようとする弊害がこんなところにも出ている。
俺は里奈の助言を受けながら、不一致の修正作業に取りかかる。この微小な不整合を直すには、システムの根幹に触れる必要がある。まるで神経外科医のようだ。
夕食を摂る時間もなく、作業は夜まで続いた。作業の合間、ふと視線を向けた端末の画面には、年末に届いた年賀状の電子レプリカが映っていた。物理的な年賀状も数枚ポストに入っていたが、今はもう大半がデータで届く。それも、通信が復旧しない限りは確認すらできない。
ようやく通信が回復したのは、夜が更けた頃だった。システムが安定したことを確認し、疲れた足取りで自宅へ戻る。冷蔵庫の折込チラシに目をやり、デジタル円ウォレットで夕食を注文しようとするが、まだ不安定だ。サブスク決済もエラー表示。
諦めて、埃を被ったポータブルCDプレイヤーを引っ張り出す。古いロックバンドのCDをセットし、再生ボタンを押す。スピーカーから流れ出すノイズ混じりの音楽が、妙に心地よかった。
その時、里奈が唐突に言った。
「ねえ、覚えてる? あの時もさ、お兄ちゃんが私を助けてくれたんだよ」
俺は心臓を掴まれたような気持ちになった。それは、俺が里奈を事故から救えなかった後悔の記憶だったはずだ。しかし、エージェントの里奈は、まるで別の文脈で話しているように聞こえた。
「ああ、覚えてるよ」
俺は喉の奥から絞り出すように答えた。彼女は、あの時の俺の無力さを責めているわけではない。むしろ、赦しのような、そんな温かい響きがあった。
その時、端末が明るく点灯した。通信が完全に復旧したことを示す通知が、画面いっぱいに表示される。デジタル円ウォレットの残高が更新され、サブスクの引き落としも問題なく完了したことを告げていた。
「サブスクの引き落としもできたみたいだよ」
里奈の声が、俺の耳元で優しく囁いた。
俺は、彼女が、今の俺を許してくれているような気がして、少しだけ、心が軽くなった。
ノイズは消え、世界は再び、情報で満たされ始めた。