監査灯の下で折れない紙
──平成0x29A年06月22日 20:10
平成0x29A年06月22日、20:10。
区画行政サービス窓口のシャッターを半分だけ下ろす。終業の音はとっくに鳴ったのに、監査が鳴り止まない。
カウンターの下で、私の古いガラケー型端末が震えた。画面はiモードみたいな文字メニューのまま、上からARの赤い帯が重なる。
《臨時監査:差分処理ログ提出。期限 03:00》
「またか……」
耳の奥で、父がため息をつく。
『今日は月末でもないのに。誰が得するんだ、こんなの』
父――故・隆志。生前は戸籍係で、私に印鑑の押し方だけは厳しかった。
窓口の端で、最後の来庁者が封筒を握って立っている。高校の制服の上に、部活帰りのジャージを羽織った女の子。平成の混線そのままの格好だ。
「すみません、祖母の……えっと、人格代理の更新。倫理検査の間の、代理の申請って」
私は端末で番号札を読み、机上のスキャナに申請書を通す。読み取りの光がやけに長い。
《監査チェック:本人同意記録不足》
「同意、ここに」
女の子が差し出したのは折込チラシだった。スーパーの特売、冷凍コロッケ、卵十個、そして余白に祖母の筆跡。丸い字で「更新お願いします」。
その裏に、小さなQRのようなものが貼ってある。
「記憶補助アプリの、エクスポートです」
女の子は言った。「祖母が、メモをアプリに入れられなくて。だから……チラシに書いて、撮って。アプリが勝手に整理してくれて」
私はチラシを指先でならした。インクの匂いと、揚げ物の写真のテカり。父が小さく笑う。
『そういうの、いいな。紙は逃げない』
だがシステムは容赦しない。
《監査チェック:紙媒体からの同意は信頼度B。追加証跡を要求》
「追加……」と私が口にすると、女の子の肩が落ちた。
「祖母の家、もう片付けちゃって。CDとかも捨てて……」
「CDでも、CD-Rでも、何か残ってない?」
私が言うと、父がすぐ割り込む。
『やめとけ。監査は証跡を餌にして、次を要求する』
女の子はバッグを探り、透明なケースを出した。白いラベルに手書きで「ばあちゃんの声」。
「これ、CD-R。昔、家のPCで焼いたって」
私は受け取り、窓口奥の古いドライブに差し込む。回転音がし、ヘッドが鳴く。画面に波形が出た。
《音声データ:本人発話照合 가능。監査条件:健康状態の現況確認》
「健康状態……?」
女の子が眉をひそめる。
父が低く言う。
『ほら来た。人格の更新に、身体の監査を混ぜる。今のドクトリン署名、まともじゃない』
窓口の壁の掲示板には、誰が貼ったのか分からない「党ドクトリン倫理準拠」の青いステッカーが色褪せている。私たちはそれを、ただの注意書きみたいに扱っている。
「ナノ医療パッチ、持ってる?」
私は女の子に尋ねた。
「え、はい」
制服のポケットから、小さな銀色の袋。コンビニで売ってる、貼るだけの体調ログ。平成の絆創膏みたいな顔をして、皮膚の下ではナノが働く。
彼女は腕に貼り、端末に近づけた。ピ、と短い音。
《健康ログ提出:完了》
《監査条件クリア》
私はほっと息をつき、画面の承認ボタンを押す。押印の代わりに、指先の静電署名。なのに、背中が重い。
すると通知がまた割り込んだ。
《ランダム職務:第0x7A1C2内閣ユニット/内閣総理大臣(5分)》
「……今?」
父が笑った。
『お前が首相だ。窓口係のまま、な』
ヘッドセット越しに、無数の差分断片が流れ込む。水道料金の端数、学食のメニュー表記、代理エージェントの倫理検査間隔――どれも生活の角を削るような提案ばかり。
私は一つだけ、指を止めた。
《同意証跡の信頼度改定:紙媒体B→C(監査効率化)》
父が静かに言う。
『それを通したら、あの子のチラシが無意味になる』
私は却下に触れた。署名は通るか分からない。党のアルゴリズムはもう、皆が半分ほど読めるほどに痩せている。
それでも画面は一瞬、白く瞬いて。
《非承認:記録》
五分が終わる。首相の座はどこかへ渡り、私は窓口係に戻る。
女の子に返却書類を手渡すと、彼女はCD-Rのケースを胸に押さえた。
「ありがとうございます。これで、祖母の代理……続きます」
「続くよ」
私は言った。嘘ではない。続く、はずだ。
彼女が去ったあと、カウンターに置き忘れた折込チラシが一枚残っていた。揚げ物の写真の横に、記憶補助アプリが自動生成した小さな見出し。
《継承:このメモは次の代理へ》
父が、まるで自分の字を見つけたみたいに、声を細める。
『監査に削られても、残るものはあるんだな』
私はチラシを折り、制服の内ポケットに入れた。
明日の監査で、きっとこの紙も提出を求められる。
それでも、今夜だけは私の中で、父の声が少しだけ軽かった。