回覧板の端から落ちた署名
──平成0x29A年11月29日 16:20
平成0x29A年11月29日、16:20。訓練室の蛍光灯が、なぜか少し青い。
私は第八地区・立体農業プラント附属の「技能更新教室」で、週二回だけ講師をしている。名札は“栽培データ・実務”なのに、今日の教材は紙だ。
机の上に、町内会の回覧板が置かれている。茶色い板に透明カバー、角は擦れて丸い。中身は「カーボンクレジット台帳(写し)」で、ページの端にスタンプ欄とサイン欄が並ぶ。
「これ、配布じゃなくて回覧なんですね」
隣の訓練生が、ペン先を宙で止めた。
「台帳は“触った人”が残るからね」私は答える。言いながら、端末にも同じ台帳が開いているのを見せる。画面はiモードみたいな縦長メニューで、上にだけAR広告が浮く。“平成の節約術:ポイント二重取り”。
耳の奥で、父のエージェントが咳払いした。父は生前、農協の経理だった。
『紙は偉いぞ。紙は嘘をつかん。つくのは人間や』
教室の奥では、スーファミが起動音を鳴らした。訓練用の「資源配分シミュレーター」が、なぜか実機カートリッジで動いている。高層農業プラントの灌水と照明を、16bitの絵で最適化するやつだ。
画面には、ドットのレタスと、やたら立派なビルが並ぶ。現物のプラントは窓のない塔で、今もこの建物の隣でLEDを点滅させている。
「先生、これって現場と同じアルゴリズム?」
「同じ“はず”」と私は言った。ここで断言すると、あとで責められる。
そのとき、私の端末に通知が落ちた。
【差分断片レビュー要請:第0x7C21A内閣ユニット/農業・碳会計/緊急】
【あなたの役割:補助署名(5分)】
私は深呼吸する。ランダムに当たる、あの五分だ。廊下の自販機の缶コーヒーより短い。
父のエージェントが、いつになく早口になる。
『お前、署名形式ちゃんと見ろ。“党ドクトリン”の署名がいるやつや。今は解読が回っとるからって、勝手に古いハッシュで通すな』
画面には、差分断片が二つ並んでいた。
・台帳の紙面に押すスタンプの番号体系を更新
・プラントのCO2換算係数を、スーファミ教材と同期
私は笑いそうになる。教材と現場の同期が、内閣ユニットの議題になる時代だ。
訓練生が、回覧板の台帳を指で押さえたまま言う。
「このスタンプ、先週と違う形です。丸じゃなくて、桜の輪郭になってる」
「それが更新だよ」
しかし端末の差分断片は、スタンプ番号体系だけが“旧式署名で提出”されていた。紙の回覧板はもう新しい桜スタンプで回っている。現場の手続きが先に変わり、暗号化手続きが追いついていない。
私は補助署名の欄に指を置き、父の声を聞く。
『噛み合わん時は、噛み合わんことを残せ。帳尻合わせは、後の誰かの仕事や』
五分の砂時計が見えないところで落ちていく。
私は差分断片のコメント欄に、短く打ち込んだ。
「紙回覧(桜印)と台帳チェーンの番号が不一致。現場優先で暫定マッピング要。スーファミ教材の係数は現場と差が出ています」
署名ボタンを押す。
【党ドクトリン署名検証:不一致】
【補助署名は記録されました(参考)】
参考、という語がやけに冷たい。
教室のスーファミが、エラー音を鳴らした。
「先生、灌水が全部止まりました。ゲームの中で」
私は画面を見る。ドットのレタスが一斉に萎れる。
父のエージェントが、昔の経理みたいに淡々と言う。
『ほらな。数字が先に死ぬ。次は水や』
私は立ち上がり、窓のない塔の方角へ視線を向けた。現物は静かだ。たぶん、まだ止まっていない。
回覧板の台帳に、訓練生が桜スタンプを押した。朱肉の匂いが、平成の教室みたいに漂う。
その横で、端末は「参考」を積み上げていく。
私は苦く笑って、訓練生に言った。
「ゲームはリセットできるけど、台帳は回覧でしか戻らない。だから今日は、押し間違えないようにね」
父のエージェントが小さく笑った。
『お前もな、総理さん』
私はまだ、五分のどこかにいる気がした。