代理人の声、契約の隙間

──平成0x29A年06月19日 21:50

俺の名前は柳田宏明。三十九歳。第6金融ブロックのマイクロ保険契約審査員だ。

夜の九時を回って、オフィスにはもう誰もいない。スマートドアが俺の退勤を検知して開こうとしたが、手をかざして止めた。まだ終わってない。

机の上には使い捨てカメラが転がっている。契約者の本人確認用だ。デジタル署名だけじゃ不安だからって、昔ながらのフィルム写真を添付させる保険会社が増えてる。平成エミュの産物だが、誰も疑問に思わない。俺は思うけど。

「宏明、そろそろ帰ったら?」

声が聞こえた。いつもの声じゃない。

「……誰だ」

「代理エージェントです。お兄様の倫理検査が今朝から始まっていますので、私が一時的に」

俺は舌打ちした。妹の玲子が、倫理検査に回されたのか。

玲子は二十六で死んだ。過労だった。俺が無理させたせいだ。それからずっと、エージェントとして俺の傍にいる。仕事の判断を助け、数字の整合を確かめ、ときどき小言を言う。玲子らしい小言を。

でも今、この声は玲子じゃない。

「代理って、誰の人格なんだ」

「ランダム割当です。詳細は守秘義務により開示できません」

冷たい。玲子ならもっと……もっと何か、違う言い方をする。

画面に契約リクエストが届いた。第0x4A8F2内閣ユニットからの差分承認依頼。保険契約の支払い条件を微調整する党ドクトリン署名付きの変更案だ。

カセットテープが机の引き出しから転がり出た。昼休みに買ったやつだ。合成食品プリンタで作ったカレーパンを食べながら、懐かしいと思って手に取った。中身は空っぽ。でも、ラベルには手書きで「94.07 夏休み」と書いてある。誰かの思い出の残骸。

「宏明、承認しますか?」

代理エージェントが問う。俺は画面を睨んだ。

契約内容の変更は、一見すると合理的だ。でも、支払い条件の計算式に微妙な丸め誤差がある。このまま通せば、請求者が数パーセント損をする。党ドクトリンのアルゴリズムは、もう半ば解読されてる。誰かが意図的に仕込んだ誤差だ。

玲子なら、こう言うはずだ。「お兄ちゃん、これ変だよ。通しちゃダメ」

でも代理エージェントは何も言わない。ただ淡々と、選択肢を示すだけだ。

「……非承認で」

「理由を記載してください」

俺は短く打ち込んだ。「計算式に誤差。再提出を要求」

送信ボタンを押す。画面が一瞬明滅して、リクエストが差し戻された。

スマートドアが再び開こうとする。今度は止めなかった。

廊下に出ると、合成食品プリンタの排気が漂っている。誰かが夜食を作ったらしい。カレーの匂い。さっき食べたカレーパンと同じ匂い。

「お疲れ様です、宏明」

代理エージェントが言った。

「……ああ」

俺は使い捨てカメラをポケットに突っ込んで、エレベーターに向かった。玲子が戻ってくるのは、明日か、明後日か。それまで、この声と付き合わなきゃいけない。

エレベーターの中で、カセットテープをもう一度手に取った。「94.07 夏休み」。俺が十四歳の夏だ。玲子はまだ九歳で、毎日うるさかった。

代理エージェントが言った。

「そのテープ、中身は空ですよ」

「知ってる」

「では、なぜ持っているんですか?」

俺は答えなかった。エレベーターが一階に着いて、ドアが開いた。

外はもう暗い。街灯が平成の色で灯っている。

玲子が戻ってきたら、また小言を聞かされるんだろう。それでいい。それがいい。

代理エージェントの声が、最後にこう言った。

「明日も契約審査、頑張ってくださいね」

まるで他人事みたいに。