パイプ椅子の玉座、誤認された鍵束
──平成0x29A年09月30日 17:30
体育館特有の、埃とワックスが混ざった匂いが鼻をつく。
平成0x29A年09月30日、17時30分。
第9防災管区、秋季総合防災訓練の閉会式まであと少しだ。
私はパイプ椅子の上で、窮屈な姿勢を強いられていた。首から下げたゼッケンには太字で『重傷者(意識混濁)』と書かれている。これが私の今日の役回りだ。動いてはいけないし、喋ってもいけない。ただ、救護班役の市民が来るのを待つだけの簡単なお仕事、のはずだった。
「おい稔、右足が痺れてきてるぞ。血流阻害だ。少し重心をずらせ」
視界の端に浮かぶインジケータから、しわがれた声が響く。叔父の鉄造だ。元消防団分団長で、20年前に火事場の崩落事故で死んだ。享年68。口うるさいのが玉に瑕だが、こういう現場には妙に詳しい。
「動けないよ。重傷者だから」
私は脳内で反論する。
その時、腰元のベルトポーチに入れていた『折りたたみ携帯』が、激しく振動した。マナーモードにしておいたはずだが、骨伝導のように腰骨に響く。緊急地震速報ではない。もっと重く、粘着質な振動パターン。
──内閣総理大臣任命通知。
嘘だろう、と思った。こんな時に。
視界に赤いアラートが走る。ランダム選出の5分間。私は今、日本の行政権の長だ。
『おっと、お出ましだなぁ。総理大臣閣下、おめでとうごさいやす』
叔父が茶化す。
『おい、笑ってる場合か。俺は今、意識混濁の設定なんだぞ』
私は周囲を盗み見る。幸い、進行係の自治会長はステージ上で「自助・共助・公助」について熱弁を振るっている最中だ。誰も『重傷者』の私には注目していない。
私はこっそりと携帯を開いた。カチリ、というヒンジの音がやけに大きく響く。
画面には、いつもの90年代風ドット文字で『閣議決定案件:3件』の表示。そして、承認に必要な『量子署名』の要求。
『ほら、さっさと済ませろ。一件目は……第4農業ブロックの灌漑用水路、改修予算の予備費充当だとよ。地味だな』
『分かってる』
私は携帯の指紋センサーに親指を乗せようとした。しかし、画面にエラーポップアップが出る。
【警告:ID不整合】
【検出された身分:重傷者(タグID: disaster_victim_099)】
【要求された権限:内閣総理大臣】
「は?」と思わず声が出た。
訓練用のゼッケンに埋め込まれたICタグが、近距離通信で携帯と干渉している。システムは私が「総理」なのか「瀕死の重傷者」なのか判断を迷っているらしい。
『傑作だ。日本のトップが重体だってよ。株価が暴落するぞ』
叔父が笑う中、私は焦りで汗ばむ手で操作を試みる。ゼッケンを外そうとするが、防災係に「絶対に外さないでください、集計が狂います」と釘を刺されていたのを思い出す。この国のシステムは、こういう些細なルールの順守で辛うじて保たれているのだ。
そうこうしているうちに、ステージ上の自治会長が叫んだ。
「これより、現地対策本部長による、総理への緊急支援要請訓練を行います!」
悪い予感がした。
訓練シナリオ上の「総理」は、東京(という設定のサーバー)にいるAIだ。しかし、今この瞬間、この座標に「真正の総理権限」を持つ人間がいる。
『おい稔、訓練回線と公務回線が混線してるぞ』
私の携帯画面に、自治会長の顔が大写しになった。彼が持っている訓練用タブレットからの通信が、真正の総理端末である私の携帯に吸い込まれたのだ。
「総理! 被害は甚大です! 直ちに自衛隊の派遣を……!」
自治会長の迫真の演技が、私の手元の小さな画面で繰り広げられる。
『どうするよ総理。派遣しちゃうか?』
『できるわけないだろ!』
私はパニックになりながら、承認ボタンではなく、キャンセルボタンを連打した。しかし、画面には『記憶補助アプリ』が割り込んでくる。私が普段使っている、物忘れ防止のローテクなアプリだ。
【リマインダー:家の鍵、閉めたっけ?】
【リマインダー:ガスの元栓、確認した?】
「今じゃない!」
私は叫びそうになるのを堪え、ポケットから『家の鍵の束』を取り出した。ジャラリと音がする。これに付いているスマートキーの電波で、記憶補助アプリの通知を黙らせるのが私の習慣だ。
その瞬間、奇跡のような誤認が起きた。
鍵束にぶら下げていた、亡き母の形見の「交通安全お守り(鈴付き)」。その微弱な金属反射と、ゼッケンのICタグ、そして携帯の量子署名リーダーが一直線に並んだ。
ピロリン♪
携帯が軽快な音を立てた。
【承認完了:身分照合・バイパス承認】
【適用権限:地域防災係・相田稔(鍵管理者)】
システムは、私を「総理」でも「重傷者」でもなく、「体育館の鍵を管理する係員」として認識し、その権限で目の前の要求を処理したらしい。
ステージ上のスピーカーから、厳かなチャイムが鳴り響いた。
「……えー、只今の時刻をもちまして、本日の訓練は全て終了とします。解散!」
自動放送の声が体育館に響く。
自治会長が「えっ? まだ要請の途中……」とタブレットを叩いているが、照明が半落ちになり、出口のドアロックが解除される音がした。
私の手元の携帯には、『任期満了』の文字。
総理としての仕事は何もしていない。ただ、誤って訓練を強制終了させただけだ。
『やるじゃねえか、稔。お前の「鶴の一声」で、みんな家に帰れるぞ』
叔父が皮肉っぽく、しかしどこか満足げに言う。
周囲の参加者たちが、「終わった終わった」「長かったな」と伸びをしながらパイプ椅子を片付け始めた。私も『重傷者』のゼッケンを外し、こっそりと息を吐く。
手の中には、家の鍵の束。
国を動かす権限よりも、この鍵で開ける自宅のドアの方が、今の私にはよほど重要で、確かなものに思えた。
私は携帯をパタンと閉じ、帰路につく人波に紛れた。
ポケットの中で、鍵束が微かに、安堵の音を立てた気がした。