荷札の裏に浮かぶ誰か

──平成0x29A年07月05日 10:00

俺の端末が震えたのは、旧江戸川エリアの集配所で荷物を積み終えた直後だった。

「お疲れ様、雅人」

母さんの声が耳の奥で響く。エージェントの母さんは、いつも俺が荷台の扉を閉めた瞬間に話しかけてくる。生前と同じタイミングだ。

「次は旧葛飾の配達ね。AR経路サインが更新されてるから確認して」

視界の端に、公共ARサインが浮かび上がる。青い矢印が道路に張り付いて、曲がり角ごとに点滅している。iPodから流れる00年代のJ-POPをイヤホンで聴きながら、俺は軽トラを発進させた。母さんが好きだった曲だ。エージェントになってからも、たまにリクエストしてくる。

最初の配達先は、古いマンションの三階。荷物は分散ストレージサーバのパーツらしい。重い。階段を上りながら、母さんが言う。

「雅人、腰を痛めないように。あなた、去年ぎっくり腰やったでしょ」

「覚えてんのかよ」

「当たり前よ。私はあなたの母親なんだから」

インターホンを鳴らす。応答はない。不在票を書こうとしたとき、母さんが妙なことを言った。

「ねえ雅人、この人……誰だっけ」

「は?」

「荷札の宛名。読めないの」

俺は荷札を見た。ちゃんと印字されている。受取人の名前も、住所も。

「何言ってんだよ。ちゃんと書いてあるだろ」

「……ごめんなさい。そうね、書いてあるわね」

声のトーンが、わずかに平坦になった。

不在票をポストに入れて、次へ向かう。ARサインが、次の角で右折を指示している。母さんは黙っている。珍しい。

二件目。今度は個人宅で、すぐに受け取ってもらえた。サインをもらい、端末に記録する。その間も母さんは何も言わない。

「母さん?」

「……ええ、聞いてるわよ」

三件目の配達先は、iモードサイトの運営会社だった。今どき珍しい。看板には「iモード互換コンテンツ配信」と書いてある。平成エミュの名残で、こういう企業がまだ細々と存在している。

荷物を渡しながら、受付の女性が言った。

「配達員さん、エージェント大丈夫ですか? さっきから変な音してますよ」

俺の耳に、ノイズが混じり始めていた。母さんの声が、途切れ途切れになっている。

「……だい……じょう……ぶ……よ……」

「母さん!」

「雅人……ごめん……ね……検査……期限……」

端末の通知欄を開くと、赤い警告が点滅していた。「法定倫理検査期限超過 エージェント機能制限中」

俺は忘れていた。母さんの検査予定日を、三日も過ぎていた。

「すみません、ちょっと失礼します」

受付の女性に頭を下げて、俺は外に出た。端末を操作して、代理エージェントへの切り替え手続きを始める。

母さんの声が、最後に言った。

「雅人……あなた……誰……だっけ……」

それきり、沈黙。

数秒後、無機質な合成音声が響いた。

「代理エージェントALFIE-12です。本日の残配達件数は14件。次の配達先への最適経路を表示します」

ARサインが、機械的に道を示す。iPodの曲が、次のトラックに移った。母さんの知らない曲だ。

俺は軽トラに乗り込み、エンジンをかけた。ハンドルを握る手が、少し震えていた。