プリクラの中の契約書
──平成0x29A年09月24日 11:40
午前の光が、カウンター越しに磁気定期券の表面をてらてら照らしていた。
私はそれを受け取って、読み取り機にかざす。旧大宮エリア第七信用組合の窓口は、十一時四十分にしてはずいぶん静かだった。九月末の融資申請が集中するはずの時期なのに、待合の長椅子にはひとりしかいない。
「磁気、薄くなってますね」
読み取り機がじじ、と引っかかる音を立てた。定期券の裏面に印字された通勤区間は「大宮─旧浦和」。もう何年使い込んだのか、角が丸くなって白い繊維が見えている。
「ああ、それ身分確認に使えるって聞いたんですけど」
向かいの男性は五十がらみで、作業着の胸ポケットに3Dプリント部品――排水管のエルボーだろうか、灰色の継手がはみ出している。融資の目的欄には「設備補修用資材の購入」と手書きされていた。
耳の奥で、叔母の声がした。
『定期券の磁気照合は二年前に廃止されてる。近傍通信タグで本人確認して』
小島喜美子。享年六十一。私の父の姉で、この信用組合の元融資課長だった。膵臓を悪くして逝ったのが七年前。以来、私のエージェントとして、窓口業務のたびに横から口を挟んでくる。生前と同じ、少し鼻にかかった声で。
「すみません、近傍通信タグのほうをお持ちですか。タグ認証に切り替わっておりまして」
「ああ、これ?」
男性が作業着のポケットから取り出したのは、タグが貼られた古いストラップだった。ラメ入りの、プリクラのシール台紙をラミネートしたやつ。二人の若い男女が頬を寄せ合い、フレームの端に「ズッ友」とデコ文字が踊っている。
「嫁との。まだ読めますかね」
タグ部分は台紙の裏に貼り直されていた。かざすと、認証音がぽこん、と鳴った。本人照合完了。
融資審査に進む。エージェントの喜美子叔母が、申請書の数字を黙読するように間を置いてから言った。
『党ドクトリン署名、ハッシュの末尾四桁が合わない。利率テーブルの参照先が古い版を向いてる』
また、か。最近こればかりだ。ドクトリンのアルゴリズムが参照する金利基準が、月に二度も三度もずれる。署名検証を通すには、差分を手動で補正して、現行ドクトリンの正規ハッシュと突き合わせなければならない。
私は引き出しからCDサイズのリファレンスディスクを取り出した。盤面には油性ペンで「利率対照表 R3更新」と走り書きがある。端末のトレイに乗せると、ドライブがきゅるきゅると読み込みを始めた。
『末尾を29Aに書き換えれば通るけど、それは正規の手順じゃない』
「分かってます」
声に出してしまった。男性がきょとんとこちらを見る。
「あ、すみません。システムの確認で」
補正値を入力し、署名を再生成する。ハッシュが一致した。承認ランプが青く点灯する。
男性がほっとした顔をした。台紙のプリクラを指先でなぞりながら、ストラップをポケットに戻す。
「これ、嫁が死ぬ前に撮り直そうって言ってたんですよ。結局行けなかったけど」
私は融資承認の控えを印刷しながら、なんと返していいか分からなかった。
『……いい写真じゃない』
叔母がぽつりと言った。業務と関係ないことを言うのは珍しい。
男性が頭を下げて出て行く。ドアの近傍通信タグが退出を検知して、ぴこん、と小さく鳴った。
待合室が空になった。九月の光がカウンターの上を滑っていく。
ハッシュの不整合は、また明日も起きるだろう。利率テーブルはまたずれるだろう。でもあの男性は今日、排水管のエルボーを買える。誰かの水回りが直る。
それだけでいい、と思った。
『そうね』
叔母の声が、少しだけ柔らかかった。