契約の匂いと、四捨五入の朝
──平成0x29A年09月06日 06:30
六時半の旧日本橋エリア。融資審査センターの窓口には、まだ誰も来ていない。
俺は卓上の紙のカレンダーをめくった。九月六日。土曜だが、融資審査は曜日関係なく回る。壁には平成時代のポスターが貼ってある。「ご融資、スピーディに」。嘘だ。今はどんな融資も党ドクトリン署名が必要で、その検証に最低三十分かかる。
「おはようございます、誠さん」
脳波UIが拾った声は、母さんのエージェントだ。高橋房子、享年六十四。俺が二十のとき、心筋梗塞で逝った。生前は信金の窓口担当で、数字に厳しかった。
「おう。今日も頼む」
俺――高橋誠、三十九歳――は融資契約の最終承認を担当している。申請者が持ち込んだ契約書に党ドクトリン署名が正しく付いているか、アルゴリズムが改竄されていないかを確認する仕事だ。
デスクの引き出しから、写真の現像袋を取り出した。中身は空っぽ。ただの小道具だが、平成エミュの名残で「重要書類は紙で保管」という慣習が残っている。契約書の控えを入れるフリをするためのものだ。
「本日最初の案件です」と母さんのエージェントが告げる。画面に契約書が表示された。中小企業向けの運転資金融資。金額は四百五十三万円。
党ドクトリン署名を確認する。アルゴリズムのバージョンは0x4A2……いや、待て。
「母さん、これ、署名の小数点以下が変だ」
「どういうことですか」
「金額のハッシュ値が四百五十三万『ちょうど』になってる。でも実際の融資額は四百五十三万二千百円のはずだ。党ドクトリンは小数点以下を四捨五入しない。端数まで厳密に検証する」
母さんのエージェントが少し黙った。
「……誠さん、それ、承認しちゃダメですか」
「ダメに決まってる。署名が不正確なら、融資実行後に監査で引っかかる。申請者に差し戻しだ」
そう言いながら、俺は匂い再現デバイスをオンにした。このセンター特有の設備で、契約書の「紙の匂い」を再現する。インクと糊の香り。平成エミュの一環らしいが、俺はこれがないと集中できない。
画面を見直す。署名アルゴリズムのログを遡ると、やはり端数が消えている。誰かが意図的に丸めたのか、それともアルゴリズム自体の劣化か。
「母さん、この署名、誰が生成した?」
「第0x1A29B内閣ユニットです。三日前の午後二時十七分」
「そのユニット、まだ稼働してる?」
「ええ。ただ……」
母さんのエージェントが言葉を濁した。
「ただ?」
「そのユニットの総理大臣、五分間の任期中に『小数点以下は煩雑だから省略』って閣議決定を通そうとしたみたいです。非承認になりましたけど」
俺は額を押さえた。
「つまり、その総理が勝手にアルゴリズム改変したってこと?」
「……可能性はあります」
党ドクトリンは末期だ。アルゴリズムは半ば公然と解読され、五分間の総理たちが好き勝手に手を加えている。その結果がこれだ。四捨五入された融資額。
俺は紙のカレンダーをもう一度見た。九月六日。土曜の朝。申請者はまだ来ない。
「母さん、これ、承認していいと思う?」
母さんのエージェントは少し考えてから言った。
「誠さん、生前のあたしなら『規則は規則』って言ったでしょうね。でも……今のあたしは、もう少し柔らかく考えられるんです。二千百円の誤差で、誰かの事業が止まるなら」
俺は匂い再現デバイスから漂う紙の香りを吸い込んだ。
そして、承認ボタンを押した。
画面に「承認完了」の文字が浮かぶ。同時に、別の通知が来た。
『第0x1A29B内閣ユニット、アルゴリズム改竄の疑いで監査対象に指定』
俺は苦笑した。
「母さん、俺も監査されるかな」
「大丈夫ですよ。誠さんは『承認しただけ』ですから」
そう言って、母さんのエージェントは少し笑った気がした。
窓の外、朝日が昇り始めている。紙のカレンダーの九月六日に、小さく丸をつけた。四捨五入された朝。誰も気づかない、小さな歪み。