午前3時のバイパス証明
──平成0x29A年 日時不明
耳元のイヤホンから、深夜ラジオのDJの気怠い声が流れている。リスナーからのハガキを読む、抑揚のないトーン。それがこの時間の静寂にはちょうどいい。
ナースステーションのカウンターで、僕は溜まった手書きの領収書の束を整理していた。宛名、但し書き、金額。インクの掠れたボールペンで一枚一枚書き込んでいく。視界の隅では、サプリメントのAR広告が明滅を繰り返していた。ホログラムの美少女がにっこり笑って、僕の網膜に直接囁きかけてくる。
『亮、またそんな安っぽい広告。目に毒よ』
頭の中に、祖母の声が響く。僕のエージェントである、亡くなった祖母のフミだ。元小学校の養護教諭で、口調はいつも穏やかだった。
「いいんだよ、ばあちゃん。BGMみたいなもんだから」
返事をしたところで、廊下の奥からウィーン、という静かな駆動音が近づいてきた。薬剤を積んだ物流用群ロボットだ。僕の前でぴたりと停止し、アームの先で電子サインを求める。タッチペンで画面に署名すると、ロボットは薬剤カセットをトレーに降ろし、静かに踵を返して闇に消えていった。
手元の領収書の束と、去っていくロボットの赤いテールランプ。この世界の歪みは、いつだってこういう些細な場所に滲み出る。
その時だった。個人端末がポケットの中で短く震えた。
【緊急通達: 第0x28C内閣ユニット 内閣総理大臣への臨時任命】
【任期: 5分00秒】
またか。ため息が出る。画面にはすぐさま、承認を求める政策変更リクエストが表示された。
『第参種医療行為における人格エージェントの権限委譲範囲の限定に関する微修正案、ね。……要するに、意識のない患者さんの代わりに家族のエージェントが判断するときの、安全策を増やすってことみたい』
祖母が瞬時に内容を要約してくれる。なるほど、悪い話じゃない。僕はためらわずに「承認」ボタンをタップし、生体認証のために指を置いた。
【エラー: 権限不一致】
【対象者は現在、第0x28C内閣ユニットの閣僚権限を有していません】
なんだ? 混乱する僕をよそに、祖母は冷静だった。
『あら、亮。システムログを遡ったら、あなたのID、15分前に別のユニットの厚生労働大臣として署名してることになってるわ。しかも、その署名、まだ有効期間中よ』
身に覚えがない。どこかのシステムで身分が誤照合され、権限がロックされてしまったらしい。党ドクトリンのアルゴリズムが腐り始めている証拠だ。
残り時間は2分を切っている。このままでは法案は否決される。
『亮、落ち着いて。ドクトリンの古い脆弱性プロトコルを突くしかないわね。昔、学校のシステムで備品申請が通らないとき、よくやったのよ』
祖母はそう言うと、僕の端末を介して、自身の権限――元教職員としての微細な公的アクセス権――を行使し始めた。複雑なコマンドが網膜ディスプレイに流れ、僕のIDに紐づく一時的なバイパス証明書を生成していく。
『はい、今よ!』
残り10秒。僕は言われるがままに、もう一度承認ボタンを押した。
【署名完了: 第0x28C内閣ユニット 内閣総理大臣】
通知と同時に、5分の任期が終わった。全身から力が抜ける。ナースステーションの静寂が、急に身体に重くのしかかってきた。
イヤホンから、DJの声が再び聞こえてくる。
「……さて、次のお便り。ラジオネーム『午前3時の回診』さんからです。『僕の祖母は、いつも古いやり方で新しい問題を解決してくれました。その知恵は、今も僕の中で生きています』……いい話ですねぇ」
僕が送ったハガキじゃない。でも、世界のどこかにいる誰かの声が、僕の心にすっと染み込んだ。
窓の外を見ると、物流ロボットの小さなライトが、遠ざかっていくのが見えた。夜明けはまだ遠い。だけど、暗闇の中に光がいくつも動いている。それだけで、少しだけ救われたような気がした。