プラスチックの四角い月
──平成0x29A年 日時不明
「いつき、もう一時よ。良い子は寝る時間」
骨伝導イヤホンから、死んだばあちゃんの声がする。公園のベンチの冷たさが、薄いズボン越しにじんわりと伝わってくる。僕は空を見上げた。雲の切れ間に、本物の月はどこにもない。ただ、街灯のオレンジ色が空をぼんやりと濁らせているだけだ。
「良い子じゃないから、別にいい」
『まあ、口答えしちゃって』
手元のエッジAI端末にケーブルで繋がれたMOドライブが、かすかに唸りを上げた。カチン、と軽い音を立てて、ディスクの読み込みが終わる。ディスプレイには、深夜ラジオ番組のアーカイブ一覧が並んでいた。
『またそんなものを聴いて。月々の支払いはどうするんだい』
「今月はまだ大丈夫」
サブスクリプションの自動決済通知が、画面の隅で赤く点滅している。無視した。僕はダウンロードした音源ファイルを、MOディスクのアイコンの上にドラッグする。コピー中のプログレスバーが、カタツムリみたいにのろのろと進んでいく。
平成エミュレーションとかいう、誰が決めたのかも分からない趣味の悪い冗談のせいで、僕の最新型端末にはMOディスク用のポートが付いている。データの長期保存性と物理的な受け渡しの確実性を、党のドクトリンが『是』としたからだ、と学校で習った気がする。馬鹿馬鹿しい。
『昔はね、こうやって好きな歌を貸し借りしたもんさ。カセットテープに録音して』
「今はただ不便なだけだよ、ばあちゃん」
このディスクを、明日、彼女に渡す約束になっている。彼女の端末はドライブが壊れているから、わざわざ地区センターの公共端末まで二人で行かなきゃならない。クラウドで送れば一瞬なのに、安定性の低い公衆回線での大容量データ転送は、ドクトリンのアルゴリズムに禁止されている。
面倒だ。でも、それがなければ、彼女に会う口実なんて、僕には見つけられなかっただろう。
その時、端末が短く震えた。
緊急性の高いアラートだ。画面が切り替わり、厳かなフォントで通知が表示される。
【通達:第0xCCB31内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】
画面の下半分には、市民から提出された政策変更リクエストが三件、箇条書きで並んでいた。
・レガシーI/Oポート規格の義務付け廃止に関する差分断片レビュー
・物理媒体を介さない個人間データ共有プロトコルの限定的承認について
・深夜ラジオのアーカイブ配信における公的助成金の見直し
まるで僕の日常を見透かしたようなリストだった。承認ボタンを押せば、この面倒な世界が少しだけ変わるかもしれない。ドクトリンの暗号署名が必要だけど、解析済みの脆弱性を使えば通る、という噂は本当だろうか。
『あらまあ、総理大臣。出世したじゃないか』
ばあちゃんの呑気な声がする。
「五分だけだよ」
『大変だねえ。でも、あんたがそんな大事なこと決められるのかい?』
本当に。僕なんかが、何を。
僕は、じっと画面を見つめていた。指一本で、何かが変わるかもしれないという、現実味のない期待。残り時間がカウントダウンされていく。
四分、三分、二分……。
結局、僕はどのボタンも押さなかった。五分が過ぎ、総理大臣の任期はあっけなく終わった。世界は何も変わらない。手元のMOディスクが、プラスチックの四角い月みたいに、鈍い光を放っている。
『……それで、よかったのかい?』
ばあちゃんの、少しだけ心配そうな声。
僕は小さく息を吐いて、イヤホンにだけ聞こえる声で呟いた。
「うん。それよりさ、ばあちゃん」
「……明日、このディスクを渡すとき、一緒に告白しようと思うんだ」