通帳の溝、苗の脈

──平成0x29A年06月15日 11:50

俺の左手首にはめた脳波UIバンドが、また軽く震えた。通知じゃない。ただの誤作動だ。汗か、土か、どっちかのせいだろう。

第22農業ブロック、温室棟の三列目。俺は膝をついて、レタスの苗をひとつずつ移植トレイに並べていく。ここは省電力マイクログリッドで回してる施設で、照明も空調も最小限。だから昼でも薄暗いし、夏はやたら暑い。それでも作物は育つ。アルゴリズムが最適化してるからだ。

「恒一、手ェ止めんな」

親父のエージェントが、耳の奥で囁く。いつもの調子だ。

親父――桑原 守――は十二年前、この温室の配電盤の点検中に心臓発作で死んだ。享年五十三。俺が二十の時だ。それ以来、エージェントとして俺の補佐をやってる。口は悪いが、手順の正確さには厳しい。

「わかってるよ」

俺は苗をもう一本、丁寧にトレイへ差し込んだ。指先に土の湿り気が残る。

昼休みまであと十分。その前に、町内会掲示板をチェックしないといけない。今朝、施設長が「何か更新があるかもしれん」って言ってたからだ。

俺は立ち上がり、温室の隅にある小さな休憩スペースへ向かった。壁に貼られた掲示板は、アナログの紙製だ。デジタル掲示板もあるにはあるが、ここじゃ誰も見ない。端末が土で汚れるし、脳波UIは誤作動するし、結局紙のほうが早い。

掲示板には、手書きの貼り紙がいくつか並んでいた。

『6/20 用水路清掃 午前七時集合』
『肥料配給 次回7/3予定』
『農協通帳 記帳機故障中 窓口対応のみ』

――通帳。

その単語を見て、俺は少しだけ笑った。

農協の通帳なんて、もう三十年以上使われてない。配給も支払いも全部デジタルで済む。それなのに、制度上は「通帳」が必要とされている。平成エミュの名残だ。

だから俺たちは、年に一度、窓口で紙の通帳に記帳してもらう。印字された数字の列を眺めて、「ああ、ちゃんと動いてるな」って確認する。それだけのために。

「無駄なことしてんなァ」

親父が呟く。

「そうだな」

俺も同意する。でも、やめられない。やめると、何かが壊れる気がする。

掲示板の隅に、もうひとつ小さな紙が貼られていた。

『内閣ユニット第0x4F2A 農業資材配分見直しリクエスト承認 6/15 11:52』

さっきの時刻だ。つまり、たった今。

俺は脳波UIバンドに意識を向けた。画面が浮かび上がる。ログを遡ると、確かにリクエストが通ってる。温室用の追加LEDパネル配分だ。省電力マイクログリッドの容量を少し増やす代わりに、別ブロックの暖房を削る――そういう内容。

「ああ、これ、俺が承認したんだ」

親父が言った。

「は?」

「五分前、お前が内閣ユニットの総理大臣だったんだよ。脳波UIが誤作動してたから気づかなかったんだろ」

俺は固まった。

「……マジで?」

「マジだ。リクエスト来たから、署名アルゴリズムに通した。党ドクトリンも問題なし。で、承認。簡単だったぞ」

親父の声は、どこか誇らしげだった。

俺は掲示板の紙をもう一度見た。承認時刻。11:52。

その時、俺は苗を植えていた。土を触っていた。

「……俺、気づかなかった」

「気づく必要もねェだろ。お前の仕事は苗を植えることだ。政治は俺がやった」

親父は、生前も農協の理事をやっていた。会議は嫌いだったが、数字と手続きには強かった。

俺は少しだけ笑った。

「ありがとな」

「礼なんざいらねェよ。それより、手ェ洗って飯食え」

俺は頷いて、休憩スペースを出た。温室の空気が、少しだけ軽く感じた。

通帳の溝に刻まれた数字も、苗の根が張る音も、全部同じ時間の中にある。俺が気づかないところで、誰かが何かを決めていて、それでもこの土は湿っている。

それでいいんだと思った。