水圧計の針は、夜を指す
──平成0x29A年04月09日 02:10
平成0x29A年04月09日 02:10。
団地の廊下灯は節電のせいか半分だけ点いていて、暗い方の床に自分の影が落ちた。
私は第六ブロック西端の給水棟で夜間当番をしている。仕事といっても、基本は監視と小修理だ。働かなくても生きていけるのに、当番表は今夜も回ってくる。
腰のポーチから、折りたたみの端末を出す。見た目はガラケーなのに、画面の上に透明な広告層がふわっと重なる。平成エミュの癖だ。着信音だけはMDの再生開始みたいな「カチッ」という音にしてある。
「水圧が一・二%落ちてる」
耳元で、祖父の声がした。
祖父――杉本 正志、享年七十七。現役の頃は配水場の人で、退職してすぐ心不全だった。いまは私の近親人格エージェントとして、夜の静けさに混ざって助言をする。
「一・二なんて誤差だよ」
「誤差を放っておくと、夜にだけ漏れる。夜の漏れは朝には乾いて、誰も見ない」
給水棟の扉を開けると、塩素の匂いが薄く鼻を刺した。中の監視卓には古いCRTモニターが鎮座している。わざとじゃない。ここの制御機は更新の差分断片がずっと審議待ちで、結局、映るものだけが残ってしまった。
緑がかった画面に、配管図と、点滅する小さな赤が一つ。圧力センサーの値が、二分ごとに少しだけ波打っている。
「センサーダストだな」祖父が言う。
「また?」
「春先は増える。微細粉じんが端子に乗る。掃除しろ、って言いたいが……」
私は棚から封印袋を取り、開けて小さなブロワーを出した。ノズルを差し込む前に、手順書を確認する。紙だ。机の端に、前の当番が置きっぱなしにした折込チラシが挟まっていた。
『新生活応援! カラーテレビ(薄型CRT風)月額サブスク』
『水道代 まとめ払いでポイント2倍(第402期ドクトリン準拠)』
薄型CRT風、なんて馬鹿みたいだ。だけど、平成っぽさはこういうところに貼り付く。画面は古いまま、支払いだけが新しい。
ブロワーで端子周りを吹くと、微かな灰色が舞ってライトにきらめいた。センサーダスト。見えないはずのものが、見えるくらい積もるまで誰も気にしない。
CRTの赤点滅は止まらない。数値が、整わない。
「ダメか」
「ダメだな」祖父は淡々と言った。「センサーが死にかけてる。部品交換の差分を上げろ」
私はため息をつき、バーチャル役所を開いた。
画面に、いつもの仮想待合室が立ち上がる。番号札の発券機、木目調のカウンター、壁には『交通安全』『節水週間』のポスター。全部、触れられないのに、触れそうなほど解像度が高い。
「第六ブロック水務・夜間受付へようこそ」
機械声が言い、私の前に透明な書類が浮かぶ。
申請名:配水センサー交換(現行制度との差分断片)
理由:夜間のみ圧力揺らぎ/センサーダスト堆積疑い
添付:監視ログ(CRC不整合 0.4%)
最後の行が嫌だった。CRC不整合。党ドクトリンの署名アルゴリズムが末期で、こういう小さな齟齬が「不正確」として弾かれる。弾かれても水は出る。だから、誰も直らない。
「申請、通るかな」
「通らない日もある」祖父は言った。「でも上げろ。上げたという事実だけで、次の誰かが助かる」
私は送信を押した。
すると、画面の隅に小さな通知が出た。
《あなたは第0x7A1C3内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました(残り 04:59)》
心臓が一拍だけ跳ねる。ランダムの五分。こんな時間に。
バーチャル役所の背景が、急に“閣議室”っぽい会議テーブルに切り替わった。といっても、木目のカウンターが少し広くなり、椅子の数が増えただけだ。平成っぽい役所の延長線に、国家がある。
「議題:配水センサー交換(第六ブロック)」
私が今出した差分断片が、もう卓上に置かれている。
祖父が低く言った。「署名は党ドクトリンが要る。お前の五分じゃ決められない」
その通りだった。承認ボタンを押すと、赤い警告。
《ドクトリン署名が一致しません》
《推奨:非承認/保留》
私は保留を選んだ。非承認にする勇気も、承認にねじ込む権限もない。
五分が過ぎ、通知は消えた。
給水棟は静かだった。外の団地の蛇口は、今もたぶん普通に水を出す。圧力は一・二%落ちたまま、夜のどこかで小さく揺れている。
「結局、何も変わらないな」
私が言うと、祖父は少しだけ笑った気配を残した。
「変わらないのが、いちばんのインフラだ。……朝になったら、また誰かがチラシを拾う」
私は折込チラシを畳み、机の端に戻した。水圧計の針は、夜を指したまま動かない。
それでも、明け方にはみんな顔を洗うだろう。私もそうする。淡々と。